『広辞苑』の誕生日というのがあるらしい。
初版が発売されたのが1955年の5月25日なので、これが誕生日。今年で70年となるという。自分と同世代の国民的辞書である。なんとも微妙だな。
今自分の家にあるのは1976年の第二版補訂版の総皮装と2008年の第6版だ。最新版の7版も買ったはずなのだが見当たらない。リタイアしたときに会社の棚に置いてきてしまったか。身辺片づけていたときに大型辞書なので後回しにしたか何か。あとで取りに行こうと思ってそれきりになったか。そういえば辞めてから会社には一度も足を向けていない。老兵だものね。
家にある第二版の方には子どものいたずら書きが多数ある。小さい頃、といっても字もろくに読めない頃、なぜか辞書とかが大好きで、父親の本棚から引っ張り出してはいたずら書きをしていた。『広辞苑』以外にも『新明解国語辞典』にも絵が描いてある。フランス語辞典や古語辞典にも。ときどき調べもののために引っ張り出すと、微笑ましくなってしまう。20数年前の記憶が蘇る。
まあ一応国民的辞書だし70年だし。とはいえ記事ネタがなかったのかもしれないな。井上ひさしのことも書いてあるが、彼も亡くなったのが2010年だからもう15年になるのか。『モッキンポット師の後始末』、『手鎖心中』、『青葉繁れる』あたりが出たのは1970年代の前半だっただろうか。この人のものを読んだのは高校生の頃。なんとなく五木寛之のエッセイ、遠藤周作の狐狸庵、斎藤茂吉のドクトルマンボウなどの流れで読み始めたような記憶がある。のちにあれほどの大作家になるとは思わなかった。
井上ひさしの辞書好き、言葉への拘りには感心もさせられた。とはいえ晩年には、彼の家庭内暴力の話なども伝わってきて、なんとなく読むのを躊躇うようになった。
広辞苑は第7版が出てからすでに7年が経過しているようだ。Wikipediaの記事によれば来歴はこんな風になる。
- 1935年(昭和10年):『辞苑』(博文館))発行
- 1955年(昭和30年)5月25日:第一版発行
- 1969年(昭和44年)5月16日:第二版前半
- 1976年(昭和51年)12月1日:第二版補訂版発行
- 1983年(昭和58年)12月6日:第三版発行
- 1991年(平成 3年)11月15日:第四版発行
- 1998年(平成10年)11月11日:第五版発行
- 2008年(平成20年)1月11日:第六版発行
- 2018年(平成30年)1月12日:第七版発行
おそらくもっとも売れたのは累計では第三版あたりなのだが、短期間でとなると第四版になるだろうか。1991年の1年間であの大型辞書が200万部以上売れたのだから。それからじょじょに下降線をたどり、第6版は1年で36万部。最新版の第7版はおそらく20万部程度だったのではないか。
しかし四版の時のことはなんとなく覚えている。同じ出版業界にいたこともあり、取次や書店を回っていると、そのときの熱気はが身近でも伝わってきた。とにかく品不足で、書店はどこも品確保に動いていた。取次にはパレットで毎日のように10パレットずつ入品したとかなんとか。たしか1パレが156とかそんな数だったと聞いたことがあるが定かではない。
「ああいう商品があるのは羨ましいね」「岩波は左団扇だね」。売れない出版社の営業同士でため息まじりにそんな会話をしたような記憶もなきにしもだった。
しかし前述したように四版以降は右肩下がりに刷り部数、売上は下降していったようだ。一方であの辞典を編集するコスト、一気に刷った商品を在庫として抱えるコストは出版社にも大きな負担になっていったようだ。第四版が出た頃には売上も最高水準にあり、年間刊行点数は700点、社員数も300人前後いたと聞いたが、今はおそらく三分の一くらいになっているのではないだろうか。
それは『広辞苑』が売れなくなったとかそういうことではなく、紙の出版物の売上が大きく減じたことに起因しているのだろう。紙のコンテンツはある意味オワコンになってしまったのだから。
出版業界は雑誌の売上が激減して書籍の売上が上回ったのが確か2016年。利幅の大きく、広告収入もある雑誌の利益によって、儲からない書籍の出版を維持してきた出版業界に激震が走った。それ以降、書店はどんどん減っていったし、取次は完全に青息吐息で、不動産やそれこそ介護業などに手を出すようになった。
コミックや雑誌を多数抱える大手出版社は、早々に雑誌ビジネスからコンテンツビジネスに転換を図り収益構造は転換させた。かれこれ7~8年前になるけれど、大手出版社の倉庫に見学に行ったら、出版物よりも衣服や物販品がけっこう保管されていた。なんでも雑誌に掲載したファッション関連商品をそのままEコマースよろしく販売しているのだとか。「これがけっこうバカにならない」と案内してくれたお偉いさんが話してくれた。
雑誌に依拠し、コンテンツビジネスに転換を図れなかった出版社はかなり致命的だった。それを思うと書籍中心の岩波はまだ良い方だったかもしれない。とはいえ『広辞苑』6版を出した同じ年に別館ビルを小学館に売却している。その前は2000年に都内の倉庫を売却したなんて話もあった。なんか『広辞苑』出すたびに切り売りしてないかみたいなことを誰かと話ししたかもしれない。
「天声人語」の記事中には、「版を重ねるたびに加除を繰り返し、いまは第8版に向けて作業中だという」とある。オイオイそれはもうダメだろうとは正直な感想だ。第7版がおそらく最後だろうね、なんとなく周辺からそんな話も出ていたような。でも出版社が主力商品を維持し続ける以上、改訂作業は続けることになり、そして新版を出すことになるのかもしれない。
第5版からは10年サイクルで改訂版を出してきている。第7版刊行が2018年だから、Xデーは2028年あたりになるのだろうか。歴史ある老舗出版社だし頑張って欲しいとは思うけど、正直なところ紙の辞書はもう難しいのではないかと、そんなことを思ってしまう。
もはや紙どころか電子辞書もオワコンになっているし、検索機能はスマホでほぼ無料になっている。調べた内容への信頼性もあまり問われなくなっている。さらにいえば検索機能自体がクラウドにため込まれた膨大なデータをもとにAIに取って代わられることになってしまった。
久々、『広辞苑』の文字を新聞のコラムで目にしてなんとなく思ったこと。AI時代に紙の辞書はその意味、意義を、有用性を保持し得るのかどうか。なんとも微妙だ。ながく紙の出版物の周辺に生息してきた身としては、改めてそれを思ったりもする。