午前中、お茶の水で歯科通院。6月から治療を受けている左下奥歯もようやく型をとったので次回差し歯が入って終了となる模様。
その後、お茶の水駅からお茶の水橋を渡って本郷三丁目の方へと歩く。暑い、とにかく暑い。
途中でこんな案内を見つける。
若竹亭跡 本郷2ー13ー11
明治初年から大正12年(1923)まで、この地には「山の手第一の寄席」と評された若竹亭があった。
明治40年(1907)の『新撰東京名所図会』-匹よると、若竹亭では毎月前半を落語、後半を義太夫と定め、市内有数の寄席であった。定員は800名ぐ注な客層は学生・官吏・会社員が多かったという。
明治後期の若竹亭は、欅造の建物で、高座の間ロは3間(約5.(m)、一奥行9尺(約2.(m)、客間は6間四方で1階席と2階席があった。
寄席は江戸時代からつづく庶民の娯楽の場であった若竹亭では、「牡丹燈籠」の三遊亭円朝、娘義太夫の豊竹呂昇(とよたけろしよう)などが出演し、それらの演目を見るために多くの人々がつめかけた。文豪夏目漱石や徳田秋声なども、若竹亭に足を運んだ観客の一人であった。
若竹亭は、大正12年9月1日におきた関東大震災により被災し、それをきっかけに廃業した。
文京区教育委員会
平成27年3月
これは三遊亭円楽が一門のために作った例の若竹とは違う。明治から大正にかけて存在した寄席である。これについては落語の文献とかで目にすることもあったし、よく読んでいた古谷三敏の『寄席芸人伝』にもよく出てきた。そうか若竹亭は文京区にあったのか。
それからあまりの暑さにどこかで涼もうと思い、本郷三丁目から春日の方に下ってくる途中で、文京ふるさと歴史館まで60メートルという看板を見つけ行ってみることにした。このへんは真砂町というらしい。
展示はこの手の郷土資料館と同じように、まずは古代から。区内から発掘された縄文式土器や弥生式土器などの展示。そういえば弥生式土器は文京区内の弥生から出土したものだったか。
さらに江戸や明治のこの地でのことがもろもろ説明されていて、けっこう興味深かった。文京区はもともとは武家屋敷が点在し、それから町屋が開けていったという。そして江戸時代後期の町人の戸数は、本郷4072戸、湯島2461戸、駒込1562戸、音羽913戸、根津422戸と人口も多くなり、手広く商いをする店も多かったという。
その中でも最も有名なのが、中山道と岩槻街道(日光街道)の分岐点である駒込追分にあった高崎屋で、江戸時代から後期にかけて「現金安売り」の商売で人気となった酒屋だったという。その賑わいや豪商ぶりは、《高崎屋絵図》として残っている。
長谷川雪旦(1778-1843)は雪舟の画風を慕い、長谷川等伯の流れを伝える絵師として活躍し、後に法橋さらに法眼に叙せられたという。
またここには若竹亭についても解説パネルがあった。
寄席に行くなら若竹亭
江戸の寄席
江戸時代の娯楽は、芝居でも見せ物でもすべて日中興行でしたが、落語だけは夜間が認められていました。ですから、木戸銭(入場料)の安いことも手伝って、寄席は大いに繁盛しました。それらの寄席のひとつが、明治維新後の若竹亭に受け継がれていきました。
山の手第一の若竹亭
明治維新によって、東京に集まってきた人々にとっても寄席は新しい娯楽の場所でした。
若竹亭の初代席亭主は元御家人佐原柳吉で、寄席を買い取った後は、若竹亭を山の手第一の席亭にしました。そして『牡丹灯籠』の円朝、女義太夫の豊竹呂昇(とよたけろしょう)などに多くの人たちがつめかけたのです。
客席は二かいにもあり、定員は800人の欅造りという立派なものでした。しかし、残念なことに関東大震災で焼失してしまいました。
円朝所縁というと墓のある全生庵など台東区というイメージがある。でも円朝の速記本などの影響から言文一致体が生まれたということなど、文士たちや文学を志す学生たちなどは文京の地で、円朝に親しんだのかもしれない。ひょっとすると若竹亭にも多くの東大生たちが通ったなんてこともあったのかなどと、少し想像してみたりする。
もともと文京の地は武家屋敷中心に栄えたとは先に書いたが、明治になるとその広大な武家屋敷が様々に転用されたという。前田藩の屋敷は東大や一高の敷地の一部となったという。水戸屋敷は軍によって兵器工場になったとも。今は東大は文京区の中心的存在かもしれないし、水戸屋敷の一部は小石川後楽園として残っている。そして兵器工場となったあたりは今は後楽園遊園地や東京ドームとなっているとか。
とりあえず文京ふるさと歴史館で文京の昔を忍んでみた。その後は後楽園から地下鉄に乗って池袋へ。そのまま帰宅した。都内の徘徊、もとい周遊はもう少し涼しくならないと再開できそうもない。