前から一度行きたいと思っていた茨城県天心記念五浦美術館を訪れた。
日光から茨城はよく笠間日動美術館や茨城県近代美術館へ行っているが、茨城県の北のはずれ、ほとんど福島県と県境に位置する五浦はちと遠い。10時に宿を出て、ちょっとだけ日光で土産物を買ってからほとんど休みなしに車を走らせて1時半過ぎに五浦に到着。近くの食堂でちょっと豪華な海鮮定食を食してから美術館に向かった。
地図を改めてみるとやっぱり遠い。それまでは水戸までだったけど、そこからさらに北上する。大田原や那須あたりから太平洋に出る高速道でもあればいいのだろうけど、多分あまりニーズはないかもしれないし、あのへんは山ばかりだから道路通すのも難しそうだ。今回はちょっと頑張ったけど、日光から五浦というのはちょっと無理がありそう。本当はあの近辺でもう一泊するくらいでないとのんびりできないかもしれない。
そして天心記念五浦美術館である。1997年に設立された比較的新しい美術館のようだけど、思った以上に立派、きれいな美術館だ。
美術館のホームページにある美術館概要にはこうある。
天心記念五浦美術館は、岡倉天心や横山大観をはじめとする五浦の作家たちの業績を顕彰するとともに、優れた作品が鑑賞できる美術館として平成9年11月8日に開館しました。当館の建つ北茨城市の五浦は、明治39年に日本美術院第一部(絵画)が移転し、岡倉天心や五浦の作家たちが活躍した歴史的な地です。当館では天心や五浦の作家たちに関する様々な資料を所蔵、研究しており「岡倉天心記念室」でそれらを紹介しています。美術館の建築設計は、美術館、博物館、駅舎など数多くの公共施設の設計で知られる内藤廣によるものです。
開催中の展覧会は箱根にある成川美術館のコレクション展~花愛でるこころ、恋の詩とともに~というもの。そして常設展は岡倉天心記念室で天心の様々な資料と天心とともに五浦に集った作家の作品が展示してあった。
しかし改めて岡倉天心ってと思ったりもする。学生の頃に多分『茶の本』は読んだはずだが、まったくといっていいくらいに覚えていない。日本文化を海外に広めたというか、明治期のそうした文化人、内村鑑三や新渡戸稲造と同じ括りでなんとなく理解していた。ここ何年か美術館巡りをするようになってからは、東京美術学校(芸大)の創設に関わり、初代校長となり、横山大観、下村観山、菱田春草らを指導し、日本美術を牽引した存在みたいにアバウトに覚えていた。
そこで五浦美術館にあった年表やウィキペディアの略歴とかで簡単に年表をまとめてるみることにした。
<岡倉天心年表>
年齢 | 来歴 | |
---|---|---|
1863 | 横浜に生まれる | |
1870 | 7 | ジェームス・ハミルトン・バラの英語塾に入る |
1871 | 8 | 洋学校高島学校に入学 |
1873 | 10 | 東京外国語学校(現東京外国語大学)入学 |
1875 | 12 | 東京開成学校(後の東京大学)に入学 |
1878 | 15 | 基子夫人と結婚 |
1880 | 17 | 東京大学文学部卒業、11月より文部省に勤務 |
1881 | 18 | フェノロサと日本美術調査 |
1884 | 21 | フェノロサと京阪地方の古社寺歴訪 |
1886~1987 | 23-24 | フェノロサと欧米視察旅行 |
1888 | 25 | 文部官僚九鬼隆一の妻波津子と不倫関係となる |
1889 | 26 | 東京美術学校開校、同幹事 |
1890 | 27 | 東京美術学校初代校長就任、横山大観、菱田春草男、下村観山らを育てる |
1893 | 30 | 清国出張、竜門石仏を発見 |
1897 | 34 | 『日本帝国美術歴史』の編纂主任となる |
1898 | 35 | 東京美術学校を排斥され辞職。同時に辞職した横山大観らと日本美術院を発足させる |
1901 | 38 | インド訪遊 |
1902 | 39 | インドでタゴールと交流を深める。帰国後、訪日したビゲローと交歓 |
1903 | 40 | 五浦に土地と家屋を購入 |
1904 | 41 | ビゲローの紹介でボストン美術館中国・日本美術部に迎えられる。『日本の覚醒』をニューヨークで刊行 |
1905 | 42 | 五浦に別荘を新築し六角堂を建てる。5月渡米ボストン美術館中国・日本美術部アドバイザーになる |
1906 | 43 | 日本美術院第一部(絵画)の拠点を五浦に移す。 『茶の本』をニューヨークで刊行 |
1907 | 44 | 三回目のボストン美術館勤務のため渡米。中秋観月の園遊会を五浦で開催 |
1910 | 47 | ボストン美術館中国・日本美術部長に就任 |
1912 | 49 | 文展審査委員就任 |
1913 | 50 | オペラ台本「白狐」を書き、病気のため帰国。9月静養先の赤倉温泉にて死去 |
10歳で東京外国語学校入学、12歳で東京大学入学、15歳で結婚、17歳で東大卒業、文部省勤務。当時の学校が今の大学とは規模も違うし一概に比較はできないにしても、なんていうかとんでもない早熟な天才だったのではないかと思ったりもする。
来日したフェノロサの通訳兼助手として日本美術研究、美術教育を主導していくが、もとより来日したフェノロサもまだ28歳と若い。本国ではまだまだ活躍の場のない大学出のインテリが、東洋の辺境で一山当てようみたいなことで来日したのだろうが、28歳のお雇い外国人と18歳の通訳兼助手である。草創期の明治は恐ろしく若い秀才、天才が国造りのために活躍したということになるのだろうか。
その後、東京美術学校の開校と初代校長就任が27歳。開校した頃は、天心の発案で奈良時代の官僚の衣服を元にした制服まで作られたという。
教員や学生からこの制服はかなり評判悪かったようだが、若き野心的な文部官僚だった岡倉天心はまったく意に介していなかったようで、このかっこで愛馬にまたがる写真も残っている。
若い横山大観、菱田春草らは天心を慕っていたのだろうが、けっこう反感を持っていた教員や学生もいたのではないか。天心の校長排斥にあっては、ほとんどの教授陣が天心と共に辞職したということらしいのだが。
まあ、これを機会に岡倉天心の伝記とかそのへんを少し漁ってみようかと思ったりもする。松本清張が天心について書いたものもあるとかいうし。
天心記念室に展示してあった作品をいくつか。
こうした作品を観ていると、五浦に若き才能が集まったものだと思う。それがすべて岡倉天心の薫陶を受けてということでいえば、天心はやはり大人物だったのだろうとか思う。まあ私生活とかはかなり俗人のようではあったが。
この写真はいろんなところで見ているけど、五浦時代の若き作家たちの制作風景を活写したものだ。
一番手前で絵を描いているのが木村武山、その後ろでカメラに目を向けているのが菱田春草、続いて横山大観と下村観山。その奥は天心の居室だという。日本画とその作者たちもまた若かったということでしょうか。