「8 1/2」を観る

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 何十年ぶりかでフェリーニの「8 1/2」を観た。「甘い生活」との混同も顕著だったが、改めて観返してみると傑作であるとの認識を新たにした。

 起承転結のあるストーリー性を無視し、過去、現在、未来、夢、想像が交錯するコラージュのような映画。それにより一人の男=主人公の映画監督をできるだけ総合的、あるいは客観的に描く。これ以後のフェリーニ映画に顕著なコラージュ的な手法はこの映画が最初であり、多分もっとも成功した作品といってもいい。

 ラストの有名なセリフは、一人の人間をいかに理解するかについての作者の便宜的かつ投げやりな観客への問いあるいは欲求である。

人生は祭りだ。共に生きよう。君にも他人にも僕にはこれしか言えない。ありのままの僕を受けれいてくれ。お互いを見出すにはこの方法しかないのだ。

 主人公(行き詰った映画監督)=フェリーニを受け入れてくれ。作り手と観客がお互いを見出すにはこの方法しかないのだ。

 現実的はそんなには簡単なものじゃない。この映画は芸術性、難解さ、等々を含めて20世紀映画史における最高傑作の一つとして語られる。実際その通りだと思う。でもこの映画はもっと簡単なコメディかもしれない。警句のような名言が多数溢れる台詞も実は安っぽいものかも。そして主人公の夢、願望として語られるものはどれも陳腐なものかもしれない。

 劇中の主人公の思い浮かべるハーレムのなんとも庸劣な極みなこと。若い愛人や劣情的な人妻、そして家事に勤しむ美しい妻はすべてを理解してくれる。ある年齢に達した女性たちは二階の部屋にお払い箱となる。あまりにも在り来たりな比喩だ。

 創造性豊かな映画監督が実はつまらない男であるということを見せる、そういうシークエンスだ。フェリニーの自虐性、露悪趣味のあらわれかもしれない。

 自虐、露悪、自己嫌悪、自己肯定、自己憐憫、自己愛、自意識過剰、そういったものがあるときは露骨に、またあるときには比喩的に描かれる。とはいえけっこうチープな感じだ。

 40代半ばの中堅映画監督が制作に行き詰まり精神的にもリアルな生活でも追い込まれる。それでも映画製作は進み、野外での大掛かりなセットも完成している。どうやらSF映画でセットはロケット発射台のようだ。しかしストーリーはまとまらず、監督は完全に行き詰る。彼に辛辣な警句を投げる脚本家(多分監督の分身か)は最後に監督の妄想的世界の中で絞首刑に処せられる。

 それでもプロデューサーに急かされて野外セットの前で記者会見が行われる。でも何も語ることができない監督は無様にもテーブルの下に隠れ逃げ回り、最後は渡された拳銃をこめかみに向けて・・・・・・。

 果たして最後の大円団、野外セットの前で登場人物が輪になって踊るシーンは、主人公が最後の最後に見た夢なのだろうか。

 この映画のオマージュともいうべきボブ・フォッシーの「オール・ザット・ジャズ」が「8 1/2」をそのまま踏襲しているのだとすれば、フォッシーが登場人物の死の瞬間にみたショーは「8 1/2」の大円団のミュージカル版だ。さしずめ死の天使ジェシカ・ラングクラウディア・カルディナーレの翻案だろうか。

 クラウディア・カルディナーレ演じる美しい少女は、主人公の単なる理想の女なのかどうか。フォッシー解釈の死の天使とするほうがまっとうかもしれない。そしてあの大円団はやはり死の間際に観た幻影か。

 優秀な映画かどうかは一つ一つのカットを観ればわかる。そういう点でも「8 1/2」は傑作である。どのカットも見事に構成された映像美が宿っている。一つ一つが絵画のごとくだ。これはモノクロであることによって成功している部分もあるかもしれない。カラーのこうした構成美を築くのは難しい。

 もう一つ、どれだけ女優を美しく撮れるかどうか。この映画のクラウデキア・カルディナーレは本当に美しい。こんな女性に誘われるなら死も悪いものじゃないかも。そして中年男はこんな少女に対して「共に生きよう」と呼び掛けることは多分無理だ。

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 そして男が求めているのは、美しく理知的で家事や子育てをし、自分を理解し、たとえいっとき他の女性と遊び歩いていてもそれを笑って許してくれる、そういう女性なんだろう。フェリーニはアヌーク・エーメをそういう存在として描いた。

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 それぞれのカットの美しさ、各シークエンスの意味性、聖と俗の隠喩、様々な引用。映画のもつ猥雑さ、それらを破綻なく盛り込んだ映画。足らないのは万人に理解されるようなストーリー性だけかもしれない。それでもタルコフスキーのような理解を拒絶するような難解さはない。ベルイマンのような暗鬱たるものもない。フェリーニの映画にはどこか軽さがある。そしてそれぞれの人物に対する、特に市井の人、弱き者への優しい眼差しもある。

 自分的には「アマルコルド」の次にこの映画が好きかもしれない。