色川大吉先生逝く

 朝刊を開くと訃報記事が目に飛び込んできた。

 その下段には名優ジャン・ポール・ベルモンド死去の報も。

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歴史家・社会運動家の色川大吉さん死去 民衆史の研究をリード:朝日新聞デジタル

 学生時代、歴史や政治を勉強していた自分は色川氏の著作に触れ、多くを学んだ。無味乾燥な事実の羅列的な通史や子細な研究論文とは異なる歴史叙述によって、歴史、特に近現代史への興味が膨らんだ。

 10代の最期の頃に氏の歴史エッセイ『歴史の方法』に触れ、そこから『近代国家の出発』、『明治精神史』と読みついでいった。漱石や藤村と異なる北村透谷など明治草創期に文学に興味を向けたのも多分『明治精神史』の影響だ。『歴史の方法』はE・H.カーの『歴史とは何か』と共に歴史学、歴史意識というものを自分に意識させてくれた二大エッセイだ。以来、色川氏に対しては尊敬の意も込めて先生と密かに呼んできた。

 色川氏はその後も民衆史の視点から個人史、自分史へとスパンを広げていった。また社会運動においても水俣問題、護憲運動などにも積極的に発言を続けられた。70代になっても世界各国を旅し、自ら「フーテン老人」と称して旅行記もまとめられた。

 21世紀以後、政治的にも社会運動の面でも冬の時代を迎えているが、色川史学は氏がパイオニアとして研究した民衆史、提唱された個人史、生活史という形で日本人の歴史意識の中に根付いていると思う。

 色川氏の著作のほとんどを手放してしまったが、最近読み返したいと思い古書で『歴史の方法』を入手した。元々は大和書房から出ていたハードカバーで自分が持っていたのもそれだったが、その後岩波の同時代ライブラリーに収録された。

 

 今、その冒頭の部分のページをめくっている。冒頭で色川氏は影響を受けた三人の歴史家の死について触れている。

 今から二十年ほどまえのこと。私の精神史にとって忘れがたい人があいついで死んだ。服部之総ハーバート・ノーマン久保栄・・・・・三人が三人とも自殺ともいえべき異常死であった。今から思えば、みんな五十歳前後の活力を残した若い自死だった。 P4

 このやや不吉な書き出しから歴史エッセイの傑作「歴史叙述と歴史小説」は始まる。試みに目にとまった文章を引用してみる。

 歴史叙述とは何であろうか。歴史を忠実に記述することだろう。それなら歴史小説や史劇とどこが違うのか。同じ言語による歴史の表現である以上、歴史叙述も究極においては歴史文学と近いものになるのではないか。それとも文学とは本質的に違う何かが、歴史の叙述にはあるのだろうか。

 「歴史叙述とは何か」「歴史記述の方法にはどんなものがあるか」というようなことを、これから述べてゆくのに、まず歴史小説との関連の問題から始めるのがわかりやすいように思う。

 歴史叙述や歴史小説を論じるには、第一に読者の問題があり、第二に表現する主体(歴史家や作家)の問題がある、第Ⅲにはその方法の問題がある。

P9

 そこから日本人の歴史意識を形成する上で大きな影響があったNHK大河ドラマを論じ、史実よりも主役=ヒーローを重視し、そのために史料を加工していく歴史小説に対して、あくまで歴史的事実を尊重し、そこで様々な仮説をたて、それを検証しながら歴史の流れを俯瞰をしようとする歴史叙述の違いを詳細に述べていく。

 色川氏は歴史小説、特に司馬遼太郎の作法をこう評している。長くなるがそのまま引用する。

・・・・・・歴史家は娯楽を提供することを目的としない。娯楽を提供しようと考えるなら最初から歴史小説を書けばいいのである。(歴史叙述にも結果として娯楽の提供になるものもある。)また歴史小説や歴史叙述の最良のものはしばしばシニシズムの形をとる。歴史の記述の極限の美みたいなものが辛辣さを伴うのは意味深い。その辛辣さがどのような質のものであるかによって、傑作か、傑作でないかが品定めできるほどだ。だから私たちが明治維新ものを書くとしたら、例えば司馬の『竜馬がゆく』のような甘ったるい坂本竜馬は書かない。『燃えよ剣』の絞れば水気が出るような土方歳三は書かない。土方を書くのなら一匹狼を描く。

 新選組の面白さは、むしろ子母沢寛の『新撰組始末記』の方に描かれている。あれは大正の時代に子母沢が実際に新選組の生き残りの剣士に会って話を聞いて書いた本だ。あの中に腕のたつ新選組のメンバーで悲惨な死に方をした者たちの殺され方を聞きただしているところがある。その時、多くの隊士は恐らく彼らが敵と戦って切り死にしたものと思うだろう。ところがその多数は同じ新選組隊士から殺されたというのだ。最初の隊長の芹沢鴨は仲間の手によって暗殺されている。背中合わせに敵とわたり合っている時でも、いつその見方にうしろから斬られるかわからないという不安がつきまというのだから油断もすきもならない。そういう根本的に人間を信じられない連中が吹溜りのように集まったのが新選組だ。だからその人間不信、孤独、陰惨さこそが新選組というものの本質であろうと捉えられる。

 司馬遼太郎という人は非常に才気のある稀な人だけれど、歴史の本質というものに対してもう一歩わかっていないところがある。新選組の鼻もちならない陰惨さを時代の陰惨さとして突き放して書けないところがある。どうしようもない彼らのデカダンスデカダンスのまま書く。つき離して、歴史の凄いところをえぐりだす。その辛辣の精神、自他をふくめて歴史の中の人間への不信、シニシズム、歴史の記述の極限の一つはそこにあると私などは思う。そのことで明治維新のある一時期にしか表れない一回性が表現される。

P33-34

 私が司馬遼太郎の小説を読み始めたのは二十代の半ばだったか。『関ヶ原』から始めて幕末から明治を舞台にした小説群はあらかた読んだ。しかし色川氏のこの一文が常に頭のどこかにあったせいか、いわゆる司馬遼太郎の英雄史観に取り込まれることはなかった。あれはあれで滅法面白く、歴史の私的理解としては安易な便法ではあるのだが。

 なので私の中で新選組近藤勇土方歳三沖田総司らの青春群雄でもなんでもなく、さらにいえば軍隊組織でもないただのゴロツキ、白色テロ集団としか思っていない。また薩長同盟の仲介役として幕末尊王攘夷運動のヒーローという坂本竜馬像は、司馬遼太郎が作り出したものだと思っている。

 かれこれ50年近く、自分が歴史を親しむうえでの指針ともいうべき歴史叙述の大家であった色川大吉氏、そして人物群像に重きをおきながらも単なるヒロニズムとは異なる歴史動態をマンガというメディアの中で描いてきたみなもと太郎、この二人の相次ぐ死に触れることになったのはたいへん残念なことである。2021年は自分にとってみなもと太郎色川大吉の死んだ年として記憶されることになる。2021年、歴史家の巨人が亡くなった年として。

 色川大吉の歴史叙述の傑作でもある中公文庫『日本の歴史21近代国家の出発』が本棚に残っていた。もう一度この著作を読んでみようかと思っている。

 

 この書の冒頭、著者は歴史上の人物榎本武揚の内面にまで入り込み、あたかもそこにいたかのようにして描いていく。歴史叙述がニュージャナリズムと交差する瞬間ともいうべき表現だ。

 シベリアの曠野を二台の馬車がよこぎっていた。

 一八七八1878年(明治十一)七月二十三日、皇帝に別れを告げてペテルブルクをした榎本武揚は、モスクワよりボルガを下り、カザンからペルムまでの一千露里を馬車でとばし、ウラルの山脈を超え、トムスク、イルクールクをへてシベリア官道数万キロを突っ走った。

 ザ・バイカルを行くときは、八月末だというのにすでに秋色深く、満目蕭条、陽が落ちると気温は冷夏に下がった。

 この日、明治十一年八月三十日、日本では右大臣岩倉具視・参義大隈重信以下八百名近い従者をひきつれた明治天皇が、史上最大の北陸巡幸に出発していた。

 九月三日、榎本の乗車が転覆した。かれは先頭車に助けられて傷ひとつ負わずにはいだした。

 九月五日、朝霧とくに深く、氷のはりはじめたセレンガ河を渡った。その夜、名月を左に観ながら、チタに向かって疾走をつづけた。

 九月十一日、ネルチンスクからいよいよ黒竜江に近い。途中、雪煙があたりを圧し、はなはだ暗澹。しばらくして雪はみぞれをまじえて落ちはじめた。寒風きびしく、車中では長靴をはいているのに指先がしびれた。

 榎本は扉をしめて瞑目し、想いに耽る。

   涅珍(ねるちん)城外雪花飛ぶ

   満目の山河 巳(すで)に空きにあらず

   明日黒竜江畔の路

   長流我と共に東に帰る

P2-3

 色川大吉先生、96歳。ご冥福をお祈りします。