さらば みなもと太郎

 朝、新聞を開いて訃報に接した。

 もう『風雲児たち』の新作を読むことができなくなってしまった。連載開始から40年、自分が読み始めてからでも27~28年くらいの月日が経っている。

 『風雲児たち』を知ったのは夏目房之介のレビューからだった。発売されてすぐに読んだのでおそらく1993年だったと思う。すでに22巻とか23巻とか出ていたものをまとめ買いして一気に読んだ。おそらく蛮社の獄水野忠邦の章のあたりだったと思う。

 それからは単行本が出るたびに毎回買って読んだ。内容量が多いこと、ネームもセリフ以外の解説も多く、マンガとしては1冊を読むのにけっこう時間がかかった。その時間がなによりも愛おしかった。

 基本的にはデフォルメ化された歴史上の人物たちによる歴史ギャグマンガだったが、膨大な資料にあたり、それまでの歴史書があまりスポットをあてていない人物を含めいきいきと描いたそれは、歴史小説の類を凌駕するような作品でもあった。それは歴史大河マンガを超えた優れた歴史叙述であり、自分的には司馬遼太郎などよりも遥かに優れた歴史家だったと思っている。

 みなもと太郎のことは『ホモホモ7』も知っていた。赤塚不二夫つのだじろうの亜流みたいなギャグ漫画家というような印象だったか。その後は潮出版を主に活動の場として名作小説のマンガ化などを手掛けていることもなんとなく知っていたので、学会系の人かくらいの認識はあったかもしれない。

 そして『風雲児たち』を知りこの人のマンガの虜になった。

 この歴史マンガは歴史小説の流れを踏襲している。基本的にはギャグマンガの流れで史実を描いている。圧倒的な登場人物たち、そのキャラクターの異様な量とともに人物たちの関わりをドラマチックに描いているのだが、そこには豊富な資料に裏付けされている。

 歴史をどう描くかについては、日本近代史、民衆史を専門としている色川大吉に教えられた。彼は歴史家の叙述と歴史小説の比較を行い、歴史家は膨大な資料に基づいたうえで、歴史上の人物の内面にまで迫り歴史を物語のように描くことは可能だと論じた。それを歴史叙述という形で表現した。

 みなもと太郎の『風雲児』たちはまさに歴史叙述そのものだった。さらにいえば、歴史家にしろ歴史小説の作家たちにしろ、歴史にアプローチするにあたってはある種のイデオロギーとでもいうべき史観、自らの考えを前提にしていくことが多い。色川大吉にしても基本的には唯物史観がベースになっている。歴史小説の大家にしてその域を超えた文化人、歴史家となった司馬遼太郎にしても、ある種の英雄史観にたったうえで彼独自の視点から日本近代史を物語化している。

 しかしみなもと太郎にはそういう確固たる歴史観がなかったのではないかと自分は思っている。彼は資料や文献に当たりながら、興味をもった歴史上の人物、著名な歴史的人物から、それまでほとんど日の目をみたことがないような無名の人物までを、彼の興味の赴くままに活写した。彼の視点はその時代に生きた様々な人物たちの姿を活写することにあった。それは英雄史観とは異なる、その時代に生きた人物たち個々の生と、彼らが時代に奔流される様を描くことだった。それがあの膨大な人物群、異様なまでのキャラクターの多さとなっている。

 常に人物たちにスポットライトをあてながらも、みなもと太郎は歴史の流れとそれが結実するダイナミクスについては、歴史家同様の視点をもっていた。幕末を描くために関ヶ原の合戦から始めるのは司馬遼太郎の視点だ。当初はほぼ司馬遼太郎の影響を受けて連載を始めたのではないかと思わせる記述もたくさんある。次第に彼は著名な歴史上の人物だけでなく、彼らと絡む無数の無名人たちの生についてもスポットをあてるようになる。あくまでも実在したはずの無名人たちだ。そこが小説家による架空の人物の創造とは異なる部分でもあったのではないか。

 もちろん基本はギャグマンガである。実在しない数知れずのキャラクターも無数に存在する。同時に実在する数多ある歴史上の人物たちをデフォルメ化して歴史叙述の中に生き生きと描いた。彼のとんでもないデフォルメが、実は伝えられる歴史上の人物の肖像画等によく似ているところなどは小早川秀秋のどうしようもないキャラクターなどにも表れている。

 潮社希望コミック版『風雲児たち』全30巻、潮社『雲竜奔馬』全5巻、リイド社ワイド版『風雲児たち 幕末編』1巻から34巻。昨年7月に34巻が出て以来、連載も中断されていると聞く。これから新撰組の登場、薩長同盟坂本竜馬の活躍などまさに幕末の動乱から明治維新までという歴史のダイナミクスが展開されるというところでの中断は残念としかいいようがない。

 しかし個人による作品という点でいえばこれは致し方がないことなのかもしれない。もはやその先の展開を誰か別の作家が引き継ぐということはおそらく困難なことだろうとは思う。我々は読者は出版された外伝を含め70巻になる作品を折に触れ読み返していくということなのだろう。

 繰り返しになるけれど、『風雲児たち』たちは並みの歴史小説や歴史通史よりもはるかに優れた歴史叙述だと思う。出来れば全巻がきちんと小学校や中学、高校の図書館に蔵書されれば、子どもたちの歴史理解は深まるのではないかと、そんなことを考えたこともあった。

 ずっと本の流通、物流に携わってきた立場からいうと『風雲児たち』はもっと売れて良かったのではないかとも思っている。潮出版という学会系の出版社での連載刊行だったこともあり、書店ではなかなか目にすることは少なかった。リイド社版になってからは一部の大書店の棚で少しは見かけることはあったかもしれないが、大量に出版されるコミック本の中では埋没していたかもしれない。

 しかし展開の仕方によってはもっと異なる動きがあったのではないかと思ったりもする。例えば司馬遼太郎歴史小説と一緒に併売することで歴史小説の読者を獲得することも出来たかもしれない。全巻の販売が難しかったとしても、例えば関ヶ原編、秀忠と会津藩の誕生、強情解体新書と平賀源内、大黒屋光太夫とロシア彷徨などの巻など時代ごとにスポットを当てた売り方もあったかもしれない。

 リイド社もコミックとしてだけでなく、例えば児童向けを意識した歴史マンガ的なバージョンを作り小中高図書館向けの販売を行うなんてことも出来たかもしれない。

 この本を読みだした頃の自分は多分、出版社でも書店営業とかから管理部門に移っていた頃だったと思うし、その後は物流部門に移ったこともあり書店とのつながりも少なくなっていった。もしその頃に自分が書店員だったら、このコミックをもっと違った売り方で展開しただろうなどと夢想したこともあった。まだまだ書店員の力量によって品揃えや棚や平台での展開が可能だった牧歌的な時代のことだ。

 著者の訃報に接していろいろな思いがあるが、出来ればみなもと太郎の作品が忘れられることなく、長く販売され新たな読者を獲得していくことを祈るばかりだ。

みなもと太郎 - Wikipedia

風雲児たち - Wikipedia

風雲児たち長屋

株式会社リイド社 » 【訃報】みなもと太郎先生が逝去されました。

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 さいごに自分が『風雲児たち』を知るきっかけとなった夏目房之介の『読書学』のレビューを全文引用する。この本は1993年の刊行でおそらく絶版となっていて、今では古書でしか入手できないようだ。夏目房之介は長くマンガ評論やイラストで活躍を続ける人で、かの文豪の孫にあたる。

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みなもと太郎風雲児たち』賛

 今回は、いつか機会があったら書きたいと思っていたマンガについて書かせていただく。本当ならその作品が完結してから書きたいし、同じ雑誌に連載しているので、ヨイショしてるように思われるとイヤなのだが、どうもこの欄くらいしか書けそうな場所がないので、書いちゃうのである。

 自分の連載してる雑誌をホメるのも尻がかゆいが、このマンガを気長に連載させる雑誌なんて他にはない。そしてこのマンガは、おそらくエンエンと続くことによって、戦後マンガ史上に燦然たる知性の足跡を残すことになるはずである。

 雑誌も偉いが、描いているみなもと太郎先生はもっと偉い。さよう、氏をしてマンガ界の司馬遼太郎たらしめた大作『幕末群雄伝 風雲児たち』(潮出版社 1巻を82年に出した後、現在22巻まで続刊中)のことを言っておるのだ。

 読者諸兄はこのマンガのタイトルに「幕末」の2字がついていることにお気づきだろうか?そうなのだ。ホントは幕末の群雄を描くはずの物語なのである。しかし幕末を語るために関ヶ原から始まり(この視点は司馬遼太郎に通じる)、江戸時代を探り、作者がタイトルのことを忘れたかと思うほどのんびりと、幕末に向かって歩を進めている。

 しかし、これでいいのだ。

 突然にバカボンのパパになってしまったが、歴史を追う面白さとはまさにこのキリがないところにある。国会で青島幸男が決めたのである(モノが歴史だけにギャグも古い)。

 そして歴史が面白いものであることを、これほど認識させてくれるマンガを私は他に知らない。歴史に取材した面白いマンガなら他にもある。手塚治虫陽だまりの樹』や山岸涼子日出処の天子』も面白い。しかしその面白さはむしろ主人公らキャラクター中心の面白さである。歴史そのものへの驚きやスリルとは違う。まして歴史に対する著者の視点がすぐれた批評家精神として現われ、なおかつそれがギャグになるのだ。この笑える知性という点において、みなもと先生は司馬遼を超えたような気がしないでもない。

 私はできればサブタイトルを「みなもと太郎史学・近世編」にしてほしかった。そうすればやがて物語は「維新と近代編」になり「現代編・ソ連帝国の崩壊」にまで至り、転じてさかのぼり「中世編」「古代編」と、ずーっとやってもらえるのだ。これは楽しみである。

 そうして、やがては国民的日本史マンガとなって、高校の教科書となってほしい。今だって副読本にする価値はじゅうぶんにあるのだ。年号丸暗記の受験歴史を嫌いな生徒たちが、ずいぶんと救われるに違いない。

 全何百巻が完結する頃には、もう私らの老後の楽しみになってたりして。それでもまだ、番外編で高田屋嘉兵衛の話なんかやってくれるとうれしいのであった。

『読書学』潮出版社 夏目房之介著 1993年7月15日刊行 P119~121 

  今でも夏目房之介のレビューは色褪せていない。そしてその慧眼は『風雲児たち』とみなもと太郎の活躍をかなりの点で言い当ててもいるし、自分の理解はずっとこのレビューと共にある。このレビューで『風雲児たち』を知り、著者の訃報にふれまたこのレビューを読み返している。

 みなもと史学は残念ながら彼の死によって潰えてしまった。全百巻のみなもと史学は未完のままだ。著者に永遠の生があればそれこそ『大日本史』のごとくに史書として続くことができたかもしれない。願わくば彼の仕事が、彼の描いた歴史叙述マンガというジャンルが後進の手に引き継がれていくことを望む。

 さらば、みなもと太郎

 ご冥福をお祈りいたします