燃えよドラゴンを観る

 テレビは連日オリンピックばかり放送している。どのチャンネルに合わせてもオリンピック、オリンピックばかりである。

 パンデミック下のオリンピックはさすがに無理があるだろうと、個人的にオリンピックをボイコットしているので、競技の実況、録画、ニュース等を全部遮断している。スポーツ観戦はどちらかといえば好きな方だし、サッカーは月並みな表現だが三度の飯より好きみたいな感じなんだが、今回ばかりは日本代表の活躍も観ない。まあそういう風に決めたから。

 そこでもう圧倒的にテレビを見る時間が少なくなっている。もし見るとしてもオリンピックではない何か、もしくは録画したバラエティとか。そしてサブスク配信のコンテンツ、そうNetflixアマゾンプライムばかりを観ることになる。

 以前からアマプラやNetflixの映画コンテンツを順繰りに見て時間を過ごすことが多かった。それは例えばTSUTAYAのレンタルDVDの棚を飽きずに上から下へ、右から左へと眺めて時間を過ごすのと似ている。もっと昔でいえば、本屋で棚を眺めて長い時間を過ごす、そういうのと似ているかもしれない。

 日曜日も深夜だったか、一人でダイニングのテレビでアマプラのコンテンツを眺めていた。我が家はキッチンダイニングに壁掛けの32インチ、リビングに43インチ、妻の寝室に同じく43インチ、自分の部屋に32インチと4台テレビがあり、それぞれにアマプラ、Netflixが視聴できるようにしてある。

 その日は夕食後、一人でダラダラとしていてそのままダイニングテーブルでアマプラで何か観ようかとコンテンツ周遊していた。と、その中であの懐かしいカンフー映画ブルース・リーの伝説的な映画『燃えよドラゴン』があるのを見つけて思わず視聴した。

燃えよドラゴン - Wikipedia

 『燃えよドラゴン』、1973年公開の映画である。大ヒットした映画なのだが観たのは公開して何年か経った頃、多分75〜76年くらいだと思う。それにしてもすでに45年くらい経過していることになる。しかしこの映画は一大センセーションを引き起こすくらいに大ヒットした。映画公開時には主演のブルース・リーが亡くなっているというのも、ちょっとミステリアスだったように思う。しかし全国津々浦々、あのブルース・リーの奇声「アチョー」が蔓延し、風呂上がり濡れタオルによるヌンチャクごっことかに少年達は興じたものだった。

 当時いっぱしの映画少年だった自分はというと、なぜか大ヒット映画というだけでこの映画を敬遠した。それでいてこの映画以外のブルース・リーの映画やその他の亜流香港カンフー映画はけっこう観たりしていた。けっこうへそ曲がりというか倒錯してたんだが、当時から。

 ストーリーは荒っぽくまとめると、少林寺カンフーの達人が、諜報機関に依頼されて麻薬組織に潜入する。麻薬組織は3年に一度武術トーナメントを開催する。そのトーナメントに参加しながら麻薬組織の全貌を調査するようにというのだ。

 そこで日中試合を行い、夜は組織の麻薬精製工場に潜入調査を行う。最後、正体が露見するも、同じトーナメントに参加する選手たちと協力して麻薬組織を壊滅させる。まあそういう話だ。

 これって、簡単にいえば007シリーズのカンフー版である。しかも思い切りチープな作りの。それでいて世界的に大ヒットしたのはなぜかといえば、一にも二にもブルース・リーのキャラクターにある。あの鍛え上げられた肉体、カンフーの技術、相手を痛めつけた後のなんともいえない憂いと恍惚感を混じえたような不思議な表情。さらに傷ついた自ら出血したその血を舐めた後の表情などは、ある種「イっちゃってる」という感じであるのだ。

 ブルース・リーの死因については薬物中毒とされることが多いのだが、その真相は不明ということらしい。とはいえ映画でのあの表情を見ていると、絶対薬やってるなみたいな印象もたれてもしかたがないかと思えたりもする。

 007シリーズの亜流カンフー・バージョンではあるのだが、この映画は大ヒットしたせいか割と初期の段階から多数のパロディが生まれている。その中でも一番印象的なのがバカバカしいショート・スケッチ・ギャグを集めたオムニバス映画『ケンタッキー・フライド・ムービー』だろうか。あの中での『燃えよ鉄拳』というやや中編的なスケッチはとにかく徹底徹尾『燃えよドラゴン』をパロディ化していた。最後になぜかカンフー・マスターが『オズの魔法使い』のドロシーになってしまうのはご愛嬌かつ秀逸なギャグだったと思う。

 さらにいうとこの映画のヒットの要因の一つは主題歌を含めラロ・シフリンの楽曲にあると思う。主題歌はヒット・チャートの上位に入るほどヒットしたが、あの独特の曲調、アレンジは映画をワクワクさせるものがあった。

 ラロ・シフリンはアルゼンチン人の作曲家で、ジャズ畑でキャリアをスタートさせ後に映画音楽に転じた。その長いキャリアは40年を超える。驚くのはそのキャリアにあっても一度もアカデミー賞を受賞していないこと。やはり当時的にいえば第三世界出身の作曲家の受賞はハードルが高かったのかもしい。1932年生まれ89歳存命のようである。

ラロ・シフリン - Wikipedia