兄の最後について

 午後、葬儀場で兄に線香をあげる。その後前日に引き続き兄の部屋に行き、医療関係の書類の整理をした。それから病院に行き、兄の入院後の治療計画、死ぬまでの一週間の様子と、急変した日曜日のことなどを医師から説明を受けたい旨を受付にお願いした。あわせて入院費の計算等ができていたら精算したいとも話した。

 医師からの説明は後日のつもりでいたのだが、28日に入院をすすめてくれ最後にも立ち会っていただいた整形外科医がおり、時間をとっていただけるということだったので、少し待ってから診察室で説明を受けた。

 病院や医師に対して特に不信感を抱いている訳でもないのだが、とにかく入院した日が兄との最後になってしまったことと、敗血症性ショック死という死因だったので、いつ細菌感染したのかなども知りたかった。

 医師の説明は基本的には兄が死んだ後で話してくれたことと同様だった。とにかく右足の状態が悪くて膝下の血行が良くない。このままでは膝下かそれより上からの切断が必要になるという状況だったとのことだ。そして心臓外科医の意見も聞いたが、おそらく兄の心臓の状態では手術に耐えられない、生命の保証ができない状態だったということだ。

 細菌感染については、足の壊疽した部分からと考えられるが、左足の火傷の部分の可能性もあるとのことだった。ようは足の血流が悪く、ほとんど血がいっていない状態だったこと。内科医の方では水曜日に高気圧酸素療法を行ったが、改善は見られなかったという。そういう状況の中で急変したということだった。

 ただし急変した日曜日も夕方くらいまでは普通な状態で、会話とかもできていたという。夕食も前日と同様に食べていたらしいのだが、その後一気に急変して心肺停止状態になったということだった。

 まあ糖尿病で腎不全-週に3回の人工透析を行っている。両足に閉塞性動脈硬化があり、右足は親指を切断した後の状態も悪く足首から脛のあたりまで壊疽症状が出ている。左足の親指にも同様に壊疽がある。おまけに心臓疾患があり、さらに左足には大やけどがあり、骨粗鬆症で腰の骨が圧迫骨折している。そういう状態だったのである意味、いつ急変してもおかしくないということだったのだろう。

 なので28日に入院ができ、病院で死ぬことができたのは良かったのかもしれないとも思う。もし当初のとおりで翌週の水曜日の入院だった場合、おそらく人工透析の通院も難しかっただろうし、自宅で急変した場合にはそのまま孤独死する可能性もあったのだ。透析にこないということで自分のところに連絡があり、部屋にかけつけると亡くなっていたみたいな切ない想像もしてしまう。あるいは訪問看護師やヘルパーによって見つけられるみたいなことも。

 兄がまがりなりにも入院して一週間は病院で治療を受けられたこと、そして急変する間際までは普通に話も出来たということもわかった。自室で一人で死ぬことを思えば病院で最後まで処置をしてもらえたことも良かったのではないかと、そんな気もする。

 人工透析を受けるという不自由さ、足の壊疽、左足の火傷、腰の圧迫骨折、満身創痍の状態で、特に火傷や骨折の痛みはかなり酷かったようだ。そうしたことを考えれば、ようやく楽になれたということなのかもしれない。急変して心肺停止状態になったということは、多分苦しみも少なかったのではと思ったりもする。いやそう思いたいという気持ちである。

 これも勝手な思いかもしれないが、34年前に亡くなった父が兄をよんだのかもしれない。「もういい、こっちへ来て楽になれ」みたいな風に。