淀川長治先生の本とかクラシックCDとか

 午後一番で隣町の銀行まで保険料の支払いに行く。多分、来月からは銀行引き落としになる。収入がない分これからこういう支払いがずしりと来るのだろう。まあ年齢が年齢だし、遅かれ早かれくることだから致し方ない。

 その後、市立図書館に行き書架から持ってきた本を読んだり、うつらうつらしたり。本当に老人の一日風だ。開架式の書架は本の表紙を見てるだけで楽しくなる。子どもの頃はこんな風に図書館や本屋でずっと時間を過ごしていた。それがきっかけで本に関わる仕事にずっとついてきたんだから。

 今日、手に取ってつらつら眺め読みしたのは淀川長治先生の『淀川長治のシネマトーク』、『私の映画遺言』の二冊。

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 自分が映画好きになったのは、一つは父に連れられて小学生の頃から随分と映画を観てきたこと、そしてもう一つはテレビ日曜洋画劇場で毎週映画を観ていたことだと思う。毎回、紹介される映画を嬉々として観た。あの頃はテレビで様々に洋画が放映されていた。日曜洋画劇場淀川長治氏以外でも日テレでは水野晴郎、TBS荻昌弘などが映画解説を担当していた。

 その後、淀川長治氏の著作を読むようになると、あの軽快なしゃべりとはまったく違う側面、辛口批評を目にするようになる。そして同じように辛口の批評家たちが、誰一人として淀川氏の悪口を言わない、いやそれどころかみなリスペクトしているのである。淀川氏の文章を読むにつれ、この人はただの「さよならオジサン」ではないということを再確認していった。

 思えば映画批評やレビューによって映画の見方、楽しさを学んだのは多分、淀川長治氏や佐藤忠男山田宏一、批評とはちょっと違うけれど和田誠などからだった。なので、自分はある時期から淀川氏を敬意をこめて先生と呼ぶようにしている。直接お会いしたことは、70年代のどこかで試写会とトークショーみたいなもので、お話を伺ったことがあるだけだ。でも淀川氏は自分にとっては永遠に映画の先生だと思っている。

 『淀川長治のシネトーク』は1989年から9年間、雑誌『anan』に連載されたシネマレビューから196本を厳選まとめたもの。淀川氏は1989年11月に他界されているのでほぼ遺作に近いものでもある。多分、語り下ろしなんだろうけど、うまいことまとまっている良レビュー集で、新しい映画を月に3本は観ましょうをモットーにしていた方なので、当然新しい映画中心のレビューになっている。

 斜め読みしていると、映画のタイトルは当然知っているが観ていない映画が沢山あることに驚く。正直、あれもこれも観ていないという感じで愕然とする。1989年から1998年、ちょうど出版社に勤めていて多分仕事一筋みたいな頃だったんじゃないかと思う。さらにいえば1995年に結婚し、96年に家を買い、97年に子ども生まれて。仕事やプライベートで忙殺され映画どころではない時期とちょうど重なる。

 今思い出しても、とても新しい映画を観る時間はなかった。20代の頃に1年で100本、200本、一番館で映画を観ていた頃とはまったく違う。ただ一ついえばその自分、多分年齢的30代の頃は新しい映画には感心はなく、ひたすら古い映画60年代からじょじょに遡るような感じで古いハリウッド映画を観ていた時期でもあったかもしれない。

 仕事で忙しい分、金回りも少し改善されていたので、ビデオデッキを数台購入してダビングしたりとかいろんなことで古い映画コレクションを増やした時期でもある。MGMミュージカルとかアステア・ロジャースのRKO映画などは多分この頃に観ている。新しいものを追いかける余裕などなかったのかもしれないし、映画の神髄はクラシックにあるみたいなことだったのかも。

 それを思うと、この本で紹介されている映画をDVDで少し追いかけてもいいかなと思ったりもした。そうなるとこの映画レビュー、手元に置いておきたくなる。なので図書館にいる間にアマゾンで検索して手ごろな値段の古本をポチったりもした。

 3時間くらい時間潰してから、最後にCDコーナーでストラビンスキー『ペトルーシュカ』、ショパンのピアノ・コンチェルト1番、2番となぜかジャッキー&ロイの3枚を借りて出た。それから高倉町珈琲店で英語の勉強を1時間ちょっとした。といっても、単語や熟語をノートして、類語や反対語を調べたり。こんなこと学校出てからあまりやっていない。まあ断続的に英会話とかはやったりしたけど、きちんとノートとってというのは本当に久しぶり。少し続けたいとか思っているのだが。