『生きる』を観る

 

生きる

生きる

  • 発売日: 2015/04/22
  • メディア: Prime Video
 

 黒澤明の『生きる』を観た。これもまたBS撮りためておいたものだ。この映画を前に観たのはいつ頃だろう。最初に観たのは20代、名画座で必死に旧い名作を追いかけていた。そして再度観たのは多分30代の半ば頃か40代に入ったあたりか。黒澤明の作品を集中して観返していた頃か。

 今回観て感じたことはというと、映画としての古さもさることながら、この映画いわれるほどの名画かどうかということ。『生きる』という映画自体、黒澤作品の中では割と名作の扱いを受けている。『羅生門』、『七人の侍』に次ぐような扱いをうけているし、社会派ドラマのなかでは多分もっとも高い評価があるかもしれない。

 無気力にただ目的もなくルーティン・ワークをこなすだけの小役人。それが不治の病を宣告されることで、自分の人生を省みることになり、残されたわずかの時間を衛生状態の悪い貧民窟のインフラ整備と公園建設に邁進する。人生の意義に目覚め社会的貢献を果たすなか人知れず死んでいく。そうした判りやすいテーマ性がこの映画の評価を高めているのだろう。さらには名優志村喬の鬼気迫るような演技力もまたこの映画が評価される所以でもある。

 しかし本当にそうか。30年ぶりくらいに観たこの映画の感想を幾つか。

 まずこの映画は本当に社会派ドラマなのか。人物像は主役の志村喬にしろ、彼の周辺の職場仲間にしろ、家族にしろ皆なきわめて類型的だ。ほとんぼ紋切り型のような小役人、小市民ばかりである。そして末期癌を宣告された志村喬を歓楽街に誘う小説家役伊藤雄之助もまた、出来損ないのメフィストあるいは死神のような有様だ。

 この映画はひょっとして真っ当なドラマではなく、実は社会の表層を揶揄ったブラックジョーク的コメディなのではないのか。戦災からの復興が進み、「もはや戦後ではない」と喧伝された日本社会の諸相を皮肉った映画なのではないかと、そんなことを思ってしまった。

 笑かし映画だとすれば、その皮相な人物表現もなるほどと納得させられる。どいつもこいつ小役人、小市民の典型というのも判りやすい。

 さらにいうとこの映画は多分、『羅生門』と同じ構図、展開性で括られる。盗賊による貴族夫婦の襲撃という事件が、それぞれの立場からまったく異なる視点で語られる。それによって意味性が曖昧化し、その答えを観る側に提示して終わらせる。

 『生きる』でも主人公の唐突な死と、その通夜で語られる同僚たちの様々な語りの中で、彼が邁進した公園建設の意味性が複層化されていく。彼は自らの不治の病を知っていたのか。彼の公園建設への熱意はほとんど自殺に近い行為だったのではないのか。などなど。

 志村喬の演技は凄いという。しかし本当にそうだろうか。これは録音のせいもあるかもしれないが、彼の言葉は聞き取りにくく、セリフのほとんどがうまく伝わらない。思いはあれど伝えることが下手な人物の表現として、そのよくわからないセリフは有効なのかもしれないが、観ている側としては辛い。この映画は海外で高評価を得たのだろうが、それは多分に吹き替えか字幕スーパーのお陰ではと適当に思ってみたりもする。

 最後、この映画というかこの時代は平均寿命にしろ現代とは大きく開きがある。主役の志村喬の人物設定は定年間際の地方自治体の小役人だ。昭和20年代後半というと定年は多分55歳くらいだろうか。しかし志村の見た目はどうにも今風にいえば60代の後半か70代にさえみえる。今、すでに還暦をとっくに過ぎた自分からしても、志村喬はずいぶんと老けた爺さんという印象だ。時代は変わり、健康寿命も大幅に伸びた。20世紀は遠くになりにけりということなのかもしれないが。