ザ・デストロイヤー死去

 Twitterのタイムラインを眺めていたらニュースが流れてきた。

digital.asahi.com

 懐かしいオールドネームである。多くの人にとってはTVの「噂のチャンネル」で和田アキ子せんだみつおと絡む覆面コメディアンとして記憶することが多いのだろう。

 いっぱしのプロレス小僧だった自分にとっては気になるレスラー、ヒールの一人として記憶に残っている。さらにいえば彼の伝記をどこかで読んだ記憶がある。当時プロレス雑誌ではスターレスラーの生い立ちをストリー化していた。それには元々大学の花形フットボール・プレイヤーからレスラーに転身したディック・ベイヤーは、ベビーフェースとしてデビューしたが、個性に乏しく、飛び技としてのドロップ・キック以外にファンを印象付けることができなかったことなどが書かれていた。

 そしてベイヤーは自らドライバーを用いて前歯を叩き折り、悪党面に変身し、さらには覆面を被りヒールとして再デビューしたという。まあこの辺のほとんどはプロレス的なストーリーだとは思うが、けっこうよく覚えていた。

 それからのデストロイヤーは中西部から西海岸に転身して、覆面レスラーとして初めてWWAの世界タイトルをものにしている。WWAも懐かしいプロレス団体だ。マッチメークをジュリアス・ストロンボーが担っていたとか、ベアキャット・ライトが黒人初の世界チャンピオンになったり、あの流血鬼フレッド・ブラッシーがヒールになったり、ベビーフェースになったりを繰り返したりとかいろいろ楽しい団体だった。

 小学生の高学年から中学生にかけて、東スポを毎日のように駅のキヨスクに買いに行くのを日課にしてたのだが、東スポは割とWWAの記事を一面に掲げることが多かったように記憶している。

 そしてデストロイヤーは来日して力道山や馬場と抗争を繰り広げる。確か1969年に馬場とインターナショナル選手権をかけて60分フルタイムの試合を行い、馬場が1-0で勝った試合を今でもけっこう覚えている。デストロイヤーがとにかくタフなレスラーという印象だった。

 デストロイヤーの伝記に戻れば、彼の出た名門シラキュース大学のことなんかも、デストロイヤーなくしては覚えることはなかっただろうと思う。それがニューヨーク州にあることから、デストロイヤーことディック・ベイヤーはけっこう都会派なのかと思った時期もある。あとで調べてみるとニューヨーク州といってもシラキュースは北西にあり、ほとんどカナダとの国境沿いという場所だった。

 そういえばディック・ベイヤーがデビュー当時主戦場としていたのは五大湖周辺の他、カナダ地区だったとその伝記にはあったように思う。

 懐かしさもあってか、ウィキペディアの記述とかも読んでいると懐かしいオールドネームのオンパレードでつい楽しくなってしまう。

ja.wikipedia.org

 デズトロイヤーがフレッド・ブラッシーを破り、WWA世界チャンピオンになったとか、さらにカーボーイ・ドン・エリスやディック・ザ・ブルーザーと抗争し、バーン・ガニアビル・ロビンソン、マッド・ドッグ・バション、ペドロ・モラレス、イワン・コロフ等とも闘っている。ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤーはアメリカの超一流のプロレスラーだったのだと思う。

 ご冥福を祈る。