久々故郷横浜を周遊する

 最初に訪れたのは我が母校。

 そしてほぼ四年間たむろしていた部室へと向かう地下の廊下。今も同じ部屋は存在するが、当時は文科系、しかも歴研とか部落解放研究会とかお堅い、活動家崩れが多数出入りする暗い、暗いサークル棟だったのだが、今は総て体育会系のそれに代わっていた。しかも番号認証方式、オートロックみたいなになっていて笑えた。

 
 そしてさらにさらに、これも四年間通い続けた雀荘。これが35年を経て、ほとんど同じ建物としてあることに驚いた。最近、大学関係者に少しだけ話を聞くことができたのだが、大学周辺の雀荘の数は半減しているということだったのだが。
 まあとにかくここで無為な時間を多く費やしたのだけは事実。あの時間を勉学に費やしていたら、今頃こんなことをしていないのにと思わないでもない。

 大学を後にしてから、父の生まれた場所、つまり今が本籍として使っている場所へ行くことにした。学生時代は気づかなかったのだが、大学からはけっこう近い場所なのである。また区役所からもほど近いところにあるので、以前も少し歩いてみたのだが、どうしても住所に行きあたらなかったのだが、今回もぐるぐると同じ場所を回り、うろうろしているうちにようやくたどり着いたのがここである。なんと父の生まれた場所は分筆されて小さな家がいくつもあった。そしてほぼ住所で合致するのはそのうち一軒で、なんと民家で小さな寺をやっているところだった。なんとも微笑ましい。

 しかし本籍地がこうも細分化されているとなると、そろそろ自分が持ち家として住んでいる今の場所を本籍地にするのが一番合理的かなとも思う。多分、たいていの人間がそうしているのだろうから。とはいえ、本籍を移してしまえば横浜との関係性も何か永遠に切れてしまうような気もしてならないので、こればかりは微妙である。 
 それから訪れたのは横浜の野毛。まず最初に入ったのはこれも16から埼玉に越す39まで通い続けたジャズ喫茶、ダウンビート。

 そして次には大門という小料理屋に行ってみた。ここは父が贔屓にしてた店で、父が可愛がっていた女将さんが健在だった。聞けばもう70代後半とか。学生時代、父に連れてきてもらって以来の付き合いだが、皆等しく歳をとるということだ。父が30代半ばの頃に、嫁いできたばかりの女将さんはまだ二十歳と少しくらいだったということを昔父から聞いたことがある。
 この店には大学を卒業したときにもゼミの友人たちと最後の最後に飲んだ場所だったように思う。フグとか食べさせる学生にはいささか敷居の高い店だったが、快く飲ませてくれたのだと思う。
 なんとも懐かしい店であり、次回は子どもを連れてきたいと思ったりもした。
 最後に三陽でビールと餃子、ネギ鶏を食して帰ることにした。本当はラーメンも食べたかったが時間が押していた。とにかく10時半には電車に乗らないと鶴ヶ島行の終電に間に合わないのだ。そういう意味では横浜は、故郷は遠いということでもあるのだ。