黒田清輝展に行く


「特別展「生誕150年 黒田清輝─日本近代絵画の巨匠」東京国立博物館
 近代日本絵画の先駆者でもあった黒田清輝の回顧展である。東京国立博物館(以下東博)には黒田記念館が常設されていることもあり、その流れで大規模な回顧展が開かれたといえるだろう。
 さらに今回は黒田が影響受けた画家として師匠であったコランの絵が6点展示されたほか、ミレー、ジュール・バスティアン=ルパージュ、ブルトン、シャヴァンヌ、さらにモネやピサロなどの作品も展示されている。なかでもミレーの「羊飼いの少女」はオルセーから特別に貸与されたものらしく、ある意味目玉的作品といえるかもしれない。

 またジュール・バスティアン=ルパージュの「干草」は、写実主義から印象派にも大きく影響を与えた作品として黒田も評価をしていた作品である。

 黒田はこの作品についてこう語っている。

バスチヤン。ルパアジュに依って始められた外光は印象派に依て非常に研究されることとなり、印象派が又後期印象派などを生み出して居る、遂に外光と云ふことが、一般の画に影響して、室内と戸外との区別なく総て画とうものが明るいものとなった」
「コラン先生追憶」

 この絵は2年前、新国立美術館で開かれたオルセー展でも観た作品だが、農民を描いた作品としてもミレーに比べても明るく、まさに外光を取り入れた作品といえる、どこか心に残るものだ。
Twitterより

黒田清輝展、何が一番良かったか。師匠ラファエル・コランの絵が6枚もあったこと。そして代表作「フロレアル」が観れた。感激、背筋がゾクゾクした。コランは屋外に出たカバネルなんだな。


 この絵を最初に観たのは大塚国際美術館の陶板複製画でだ。そこでは何度も観ている。観る者の視線を釘付けにするような魅力に溢れた絵だ。ただし、これは芸術なのか、ポルノなのか、その境界線にあるような作品ではないかという素朴な疑問も抱いた。確かに扇情的な部分もある。写真のない時代にあってはポルノは絵画によって担われていた。なので芸術絵画の分野において美女の裸体はどこか神格化され、下半身の表現はボカされ、理想的な美として描かれることが義務づけられていた。
 フランスの官選美術=アカデミズムにおいては厳格にそうした裸婦の神格化、理想化が成されており、アングル、ブグロー、カバネル等のそれは艶かしさをギリギリの部分で様式的な美へと閉じ込めるものになっていた。
 そしてコランの「フロレアル」である。何度も複製画を観てはいたが、正直オリジナルに接してツィートにもあるとおり、背筋がゾクゾクとした。美しい。これは象徴性を帯びた絵である。女性の裸体を理想化させた絵でもある。コランはカバネルの弟子筋にあたり、官選アカデミズムの側にいた画家だということも解説文等からもわかった。そこで思ったのが、ツィートにもあるとおりコランは屋外に出たカバネルなのだということ。
 カバネルは代表作「ビーナスの誕生」で知られる。あの美しい古典的な絵画、おそらくそれはアトリエで制作されたであろう。そのモチーフ、テーマをコランは大胆にも屋外に持ち出して描いてみせたということだ。コラン外光派の創始の一人と考えられる、官選=サロン、アカデミズムと印象派の橋渡し的役割を担った部分もあるのではないかと思う。少なくとも日本から渡った留学生、黒田にとってはそういう存在だった。
 そのうえで門外漢の勝手な思いつきではあるけれど、黒田清輝に代表される日本近代絵画における洋画家たちは、留学して西洋絵画を学び、先人の名画を模写し、その技術を、表現を取り入れた。そしてほぼ同等と思われる絵を描けるようになった。明治期日本は文化、芸術、技術、制度、つまりは人文科学、社会科学、自然科学とすべての分野において西洋から学び、それを摂取することに努力した。駆け足で近代国家を実現するための盛んな努力の時代だった。「追いつけ追い越し」ではなく、ただただ「追いつけ、追いつけ」の時代だった。
 しかしそこにはオリジナリティ、日本固有の、芸術家一個人にとっての独自性は無縁だった。明治はただただ「模倣の時代」だったということだ。埼玉近代美術館で観た原田直次郎もまた黒田と同様に西洋絵画の技術を学んだ一人だった。おそらく画力、技術という意味では黒田清輝よりも数段上だったかもしれない。しかし原田もまた見事に模写できる技術の域を脱していない。明治の芸術は、少なくとも西洋技術を取り入れた芸術家はみな一様に模倣であり、いかに似せるかを競っていたのかもしれない。
 おそらく日本における洋画は大正期から昭和に入って、初めて、いや少しずつ作家のオリジナリティを表出し始めたのではないかと思う。そういう態様を国立近代美術館に通うことで追体験できるような気がする。
 黒田清輝の回顧展を観ることは明治の先人の苦闘の跡をたどる、そういう経験じゃないかと思ったりもする。そして黒田のたどり着いたところはというと、師匠コランの技術、表現を日本的風土の中で再現しえたということではないかと思ったりもする。ポーラ美術館所蔵で今回の個展でも貸し出され展示してある「野辺」という作品がある。これこを師匠コランの域に達した作品、黒田の最高傑作じゃないかと個人的には思っている。そして最愛の妻を描き、ある意味では誰でも知っている、しかもある年齢以上の者にとっては切手の絵柄として知られている有名な「湖畔」。このへんが黒田の黒田らしいリリシズムを体現していると思う。自分は好きな作品だ。