国立西洋美術館

 多分今年最後の美術館巡りだろう。本当は20日の日曜日にどこかへ行ければいいと思っていた。この日が最後の企画展が調布美術館のマリー・ローランサンとかパナソニック留美術館でやっている「ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち」などなど。だが休みは基本家事をこなさなければならないので中々ひとりの時間を作ることは難しい。だいたいが掃除や洗濯、干した洗濯物の片付けなどで1日、買い物で1日がつぶれてしまう。日曜日は結局断念しての今日、天皇誕生日。妻と子どもの昼食を作り、ようやく2時過ぎに家を出て都内に向かう。
 幾つか候補があるにはあったが、結局上野の国立西洋美術館に行くことにする。ついたのは4時近く。5時半までなのでそれなりの時間はとれるかなとも思った。切符を買うときに窓口で今日は改修のため、展示スペースが半分になっていますがと断られるが、簡単に了解。かえって展示スペースが少ないほうが時間的には十分かもしれないとも思った。
 入館は通常の入り口、コルビジェ設計の個性的な階段部分からではなく、いつもは出口となり現代絵画の部分からとなる。そこからすぐに階上へ向かうように案内される。そうするとちょうど近代絵画が始まる部分からとなる。黒馬が目をギョロとさせるのを正面かた捉えた極めて印象深いというか、とにかく人目をひくおどろおどろしたヨハン・ハインリヒ・フュースリの「グイド・カヴァルカンティの亡霊に出会うテオドーレ」から始まる長い回廊の部分だ。


 ここで最も好きな絵はといえばやはりコローの「ナポリの浜の思い出」。コロー独特の銀灰色の彩色、木々のアーチの下で浜遊びからの帰りなのか二人の女性が手をつないで向かってくる。一人は子どもを抱え、一人はタンバリンを頭上に掲げ踊らんばかりの風情。二人の背後には遠く浜辺の景色という抜群の構図の作品だ。
 コローは自然主義の位置づけられ、ミレーらバルビゾン派の先駆的存在といわれている。自然を題材にし、風景の中に人物を点景のように溶け込ませて描いたものや、農民の少女をその生活を滲ませるようにして描いたものが印象的だ。いずれも灰色をつかった抑えた色調で色彩的にはくすんだ感じがする。
 この回廊の次は所謂印象派の間となる。マネ、シスレールノワールピサロセザンヌ等の絵が陳列されている。マネがモネのパトロンだったエルネスト・オシュデ家に招かれたときに描いたとされるオシュデの子どもジャック・オシュデをモデルとした「花の中の子ども」はどこかに貸し出されたか展示がなかった。
 その他でもルノワールの美しい一枚、ある意味この美術館の展示品を代表する一枚でもある「帽子の女」の展示もなかった。さらにはシスレーの「ルーヴシエンヌの風景」も見当たらない。これはつい最近、練馬美術館のシスレー展でお目にかかっていたので、貸し出しから戻ってきてお休み中なのかもしれない。
 マネ、ルノワールシスレー等の有名な作品が貸し出し、もしくは収蔵庫行きとなったためか、その代わりというのだろうか、自分にとっては初めてなのだがルノワールの初期の習作が1点展示してあった。
ルノワールルーベンス『神々の会議』の模写」>

 そして次の間はモネの部屋である。印象派の間とこの部屋が多分自分には至福ともいえる好きな場所だ。国立西洋美術館は長く来よう来ようと思っていながら来ることないまま年月を過ごしてきた。今年の5月に訪れてからは三ヶ月くらいの間に2回も足を向けた。そして今回で今年4回目である。たぶん後どのくらい人生を送るかわからないが、年に4〜5回、最低でも死ぬまでに40〜50回くらいは通うのではないかと勝手に推測してみたり。
 モネは本当にいい。いつものように5メートルくらい離れてからゆっくりとさらに何メートルか下がってみる。多分常識なのかもしれないのだが、モネの絵は5メートルあたりから視覚混合が起きる。そしてさらに下がると色彩のマジックとでもいうべきモネ見て、感じた自然の景色の、太陽光により時間ごとに移ろうその微妙な光のきらめきが我々の眼の中で再現されていく、そんな多分錯覚なんだろうが、そんな気がする。
 と、この間で長い時間を過ごしたためか、結局その後の新印象派象徴主義の間、さらに現代絵画の間はいつものごとく駆け足となってしまった。
 モネの部屋にも今回新たに展示された作品があった。モネ24歳の作品とかでバルビゾン派、あるいはコローの影響が強い作品だと思う。前掲したコローの「ナポリの浜の思い出」とよく似た題材、色調だと思う。
<「並木道」>

 
 また国立西洋美術館の顔でも、チケットにも印刷されているモネの「舟遊び」も展示はなかった。監視員にちょっと聞いてみたところ、ドイツの美術館に貸し出し中ということだった。たぶんそうなると1年くらいは戻ってこないのだろうとは思う。残念な気もするが、旅する名画という言葉がちょっと浮かんだ。