キンキン(愛川欣也)が死んだ

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ツィッターより。

キンキン死んだのか。
貴方のパックインミュージックを愛聴していました。貴方は私の青春のある部分に確実に存在した人でした。心より哀悼の意を捧げます。キンキン!
愛川欽也を応援してくださった皆様」 - 朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASH4K3GTRH4KUTFL003.html

キンキンが死んだ。深夜放送をずっと聴いていたパーソナリティー林美雄が逝き、ナッちゃんが逝き、そしてキンキンが逝った。淋しいね。

キンキンのパックインミュージックからソラマメの2部という流れは最高だった。なぜかゲストの永六輔さんとソラマメパックに乱入して、1時間以上話していたっけ。

愛川欽也パックインミュージックは、最後にジョニー・ピアソンの「渚のシルエット」をバックにキンキンが崎南海子さんの詩を朗読していた。あの時間が愛おしかった。

80歳、寿命といってしまえばそれまでなのだが残念である。
声優であり名司会者であった彼だが、私にとってはひとえに深夜放送の名パーソナリティーだった。私が愛聴していた深夜放送はTBSのパック・イン・ミュージックだったが、キンキンはその水曜パック(火曜深夜)枠だったと思う。試みにウィキペディアとかを調べると桝井論平の後任として1971年から1975年までの放送だったようだ。それは私が中学三年から浪人の頃の5年間に渡る。私の暗い暗い青春時代のことでもある。私はキンキンのパックを聴き、翌日の北山修吉田拓郎を聴き、さらに翌日のナッチャコを聴いて日々を過ごした。
しいていえば、さらに私は彼らの第一部だけでなくその後に放送される第二部もけっこうな頻度で聴いていた。滝良子、馬場こずえ、林美雄といった面々だ。毎晩1時から5時までずっと聴いていたのか、たぶんそうではないな。40年以上前の記憶を引っ張り出すと、おそらくこんな風だったと思う。
まず学校から帰ってくるとすぐに寝る。で、9時とか10時頃に起き出して夕食をとり、11時くらいから机に向かいまずはラジオ講座を聴く。それからお楽しみのパックを聴きながらいちおう受験勉強をする。たぶんそんな風だったと思う。当然、途中で寝ることも多かったので、保険の意味もあってパックの放送は録音しながら聴いていた。その頃の残りか、今でも録音したテープが10数本残っている。だいたいにおいて一部はほぼほぼリアルに聴いていたので、残っているテープは二部のものが多い。一番残っているのは滝良子のソラマメパックだと思う。
ツィッターでも書いているが、愛川欽也のパックには永六輔放送作家の奥山祅伸等が参加していた。硬派桝井論平の後に始まっただけにどんなパーソナリティかと思っていたのだが、やれジンジロゲだのタマタマだのといったシモネタを多発する軟派路線とも思えたのだが、じょじょに彼の個性が出始め、時にフザケつつも時に真面目に人生論を展開したり、社会問題に対してもきちんと自分の意見を語るようになった。その後だろうか、永六輔等が参加するようになった。
もともとが俳優座所属の役者であり、声優としてもジャック・レモンを筆頭にコメディアン、あるいは二枚目半的な脇役を得意とした彼である。ある種の斜に構えつつも哀愁を漂わせる雰囲気や思い入れのある人でもあった。
深夜放送をやめてからはゴールデンタイムでの司会業や役者としても成功を収めた。なんとなく深夜放送を踏み台にしてメジャーで活躍するようになるタレントの走りみたいな部分もあった。そう、ビートタケシやダウンタウンといったお笑い系からタレントが深夜放送からメジャーになっていったのはみんなある意味愛川欽也のフォロワーみたいなものだったかもしれない。
なんかいろんな思いがある。深夜放送としての正当性という点ではナッチャコや林美雄に軍配があがるだろう。でも愛川欽也のパーソナリティには当時の暗い暗いティーンエイジャーを弾きつけるなんかがあったんだろうなとも思う。
彼の死という情報を前にして思うのは一言だけだ。
さらば、キンキン!