『遠いあし音・人はさびしき』

小林勇の著作。アマゾンの古書で割安で購入。人物回想の名手であった小林の代表作ともいえる書である。まだ読み始めたばかりだが、その回想譚はまさに珠玉といっていいかもしれない。本当にホロリとさせられる。
小林勇中野好夫はこう評している。まさに言いえて妙である。

「ずいぶんと多芸な故人だった。まず人物回想は彼の独壇場だった。ぼくらは『ぢぢい殺し』などとからかったものだが、あの老大家たちのいきなり腹中にとびこむという妙技は、彼独特の至芸だった。露伴回想、茂吉回想、寅彦回想等々の諸名篇、すべてこの至芸から生まれた成果と見てよかろう」

露伴と茂吉を回想した一文「露伴・茂吉の対面」の中で泣かせる文章をそのまま書き出す。描写される情景が目に浮かんでくる、しみじみとさせられ物悲しい気持ちにさせられる、そして泣ける。そういう文章である。

露伴の死後数ヶ月の後に、小石川伝通院のほとりに小さい新しい蝸牛庵ができた。露伴はこの家ができることをひそかに楽しみにしていたのであるが、当時の諸般の事情ではすべてが遅れるのが普通であったから遂に間に合わず露伴は市川の陋家に歿し、その葬儀には片山哲首相以下わずかに百五十六人が参じたのであった。
新しくできた露伴なき蝸牛庵で、二十三年二月二十日に「露伴全集」の編纂の会がもたれた。そのあとで露伴の写真が飾られた室で酒盛りが行われた。蝸牛会のメンバー、斎藤茂吉柳田泉幸田文子、土橋利彦、小林勇がいた。同じ会員の松下英麿は信州の愛妻のもとに帰っていて、この席にはいなかった。
私は酔っていた。私は露伴の写真の前で露伴の声色を使い出した。何しろ二十余年の間に自然に会得した露伴の真似であるから、それは真に迫っていたのかも知れない。たとえば「この、文子というやつは気がきつくてなかなかいうことをきかないが、根はやさしいところもあるやつだから、まあ大目に見てやっておくれ」という工合である。私は調子にのってなんでもそこらにいる人について露伴の口真似をならべたてた。
「斎藤君も一杯やり給え」といって私が茂吉に盃をさすと、茂吉はあわてて座り直し、恐縮した恰好で私の差し出した露伴の盃をうけた。茂吉がのみほすと露伴の私はすかさず「それでぼくに一杯よこし給え」という。茂吉はあわてて盃を私に返した。「斎藤君もだいぶ苦労したね。まあ無事でこうして逢えてよかった」というと、茂吉は全く感極まったように頭をさげて、「さいでございます」といった。こんなことをしているうちに座にいた土橋君のお母さんがまず泣き出した。文子さんは室を出ていった。そして誰やらわからないすすり泣きが、室にみちた。茂吉はその中でなんとも形容しがたい顔をして泣いておった。