『書籍文化の未来』

書籍文化の未来――電子本か印刷本か (岩波ブックレット)

書籍文化の未来――電子本か印刷本か (岩波ブックレット)

  • 作者:赤木 昭夫
  • 発売日: 2013/06/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
著者赤木昭夫NHKのプロデューサーや解説委員を努め退職後大学教授に転じた。科学史、技術論、メディア論を専門としかなり以前からインターネット文化を論じてきた。早くからアマゾンのウォッチャーとしてユニークな視点からこのネット通販業者の行動を解説してくれていた。
もう10年以上も前だったか、どこぞのソフト屋のユーザー会に出席した時に、第二部でこの人の講演を聴いたことがある。アマゾンのダンボールはユーザーのニーズと物流上での効率性を徹底的に追求していると語り、あのチャック形の開封をベタホメしていた。そして他者がマネをしようとしてもアマゾンはかなり早い段階で特許化しているからすぐに訴えられると、日本に上陸したばかりだった進取のネット通販業者のことを半ば得意げに解説していた。
そしてもう一つその時の講演でよく覚えているのが、携帯電話の型を作っているのが都内下町の鋳物工場で、いかに小さく薄くするかを競い合っている。なので下町のそうした中小工場(こうば)を取材すると、数年先の最新機器を予想できるということだった。
と、当時のIT産業はそんな牧歌的な世界だったのかもしれない。10年というスパンはまさに隔世の感とでもいうべきものがある。いまスマホの型の製造はたぶん台湾や中国あたりに移っているだろうし、おそらく徹底したセキリュティのもとで秘密裏により小型化、薄く、なおかつユーザーインターフェースに優れてデザインの開発が進んでいるのだろう。しかし下町の工場(こうば)か。
古くからインターネット技術をウォッチしてきた著者による今日の出版文化についてのレポートが本書である。1932年生まれの赤木氏はその年齢を感じさせないほど新しい知見にもとづいて、今日の日本の出版文化の状況をコンパクトにまとめてくれている。電子出版化が叫ばれる出版業界にきちんと俯瞰している。さらにいえば科学史、技術論だけでなく学際的な造詣も深く、出版文化の根底にある知の態様についてきちんと踏まえたうえでの文責は、そこらのIT技術かぶれのライターによる皮相な電子出版論とは大きく異なっている。
しかし所詮ブックレットという小冊子の形態である。本質的な出版論、文化論として深く論じるところまではいかない。あくまで現状のレポートとその近未来的な簡易な予見を論じるだけである。出版の将来として「印刷本と電子本の共存あるいは対決」はどうなるのか。結論的にいえば著者は、その答えを共存としている。しかし均衡のとれた共存ではなく、互いにしのぎを削ることによって成立する共存であり、その均衡を傾けるかどうかはひとえに本の読者にかかっているとまとめる。ようは読者の本の読み方、本を必要とする有り様の変転により、その均衡がどちらか一方に傾くことになるということのようだ。
以下気になった点を幾つか。
まず欧米の出版事情がここ10年でえらく様変わりしている。この業界のある種の人たちからすればほぼ完璧に常識なのだろうが、埼玉の辺境にいて情報不足とか不勉強でとか、まあその手の理由でまったく知らないでいたことが多くて。
欧米の出版社は買収につぐ買収の結果、巨大出版社の傘下で出版物を刊行する際のブランド名になっているという。さらに巨大出版社もまた多国籍なコングロマリットに所有されているというのだ。以下主要出版社と親会社(コングロマリット)との相関。

ランダムハウス→親会社:ペルテルスマン(ドイツ)
ペンギン→親会社:ピアソン(イギリス)
ハーパーコリンズ→親会社:ニュース・コーポレーション(オーストラリア)
サイモン・アンド・シュスター→親会社:CBSテレビ
マクミラン→親会社:ホルツブリンク(ドイツ)

これを日本の業界的にいえば、例えば自然科学の朝倉書店、工学書のオーム社、法律経済の日本評論社、人文社会科学の勁草書房がすべて講談社の傘下にあり、岩波書店ミネルヴァ書房晶文社筑摩書房がすべて朝日新聞の傘下に、さらにいえば竹書房秋田書店技術評論社河出書房新社読売テレビの傘下にあるみたいなイメージである。適当に思いついただけだから、裏はないですけど別に。
まあこういう出版社の買収とかが成立するのは英語書籍の市場規模がワールドワイドであるということが前提にあり、日本の狭い出版市場ではあまり現実的ではないという気もする。ただしここのところDNPが書店で丸善ジュンク堂を傘下に収め、出版社でも確か岩崎や主婦の友を実質傘下に収めたのも、こういう文脈の中にあるのかなと思えてくる。
さらにいえば例のクールジャパンではないが、日本のコミックコンテンツが世界規模で商品力を持ちえるとすれば、多国籍コングロマリットが角川や小学館講談社を買収するなんてことも現実味を帯びてくるかもしれない。なんとなく一番手は講談社かなとも思えたりして。
電子出版の日本での拡大以前の問題として日本の出版文化の市場規模は縮小傾向にある。それは出版物のコンテンツとしての魅力が他のコンテンツに比べて弱いとか、若者が携帯電話やスマートフォン等の普及により急速に活字離れしているとか、そんな文脈で説明されてきている。しかしことはそういうレベルの問題としてではなく、日本の知的後退としてとらえるべきだと赤木はある種警鐘を鳴らす。例えばアメリカの2011年の書籍輸出額は26億ドル。主要国別ではイギリス向けが4.5億ドル、ドイツが0.4億ドル、フランスが0.13億ドル、中国向けが0.84億ドル、そして日本が0.98億ドル。この5ヶ国のなかで日本だけが低下傾向にある。10年前には1.38億ドルの市場規模があったのである。
さらに国内市場の規模としては出版業界の年間売上額自体も90年代半ばには1兆11千億あったものが、2010年には約8000億へと7割近くまでダウンしているのだ。これは単に本が売れないとか若者の活字離れといった表層レベルの問題ではなく日本人の知的レベルの低下というより本質的な問題としてとらえるべきなのかもしれない。
日本がアジアの圏内にあっても中国や韓国あるいはインドの後塵を拝する可能性は、単に経済レベルの問題としてではなく、知的レベルの低下という背景からきちんと論じるべきなのかもしれないのだ。より愛国的な表現を換用すれば、この国は一等国家から二等あるいは三等国家に転じる転機が、21世紀にあって訪れようとしているのかもしれない。
知的レベルの低下の理由は様々にあるだろう。簡単に現象面だけで要因を拾ってみれば、学校教育が受験技術に特化され、さらに大学教育もまた就職のための専門学校化していることにより、専門知識を身に着ける場となりえていないということなのだろうか。学問が実学あるいはノウハウの取得だけに特化してしまったこと。たぶん知的レベルの低下の背景にはそのへんがあるのではとも思う。
本書では印刷本の電子本の特性を長所短所の点から整理している。どちらかといえば印刷本に甘く、電子本に辛い。まず電子本はリーダーに保存されているのだが、クラウドでネット販売業者とつながており、ネット販売業者の操作によってはリーダーに保存された電子本は消去されてしまう可能性があるという。つまりは電子本は所有できない。
さらに電子本はその画面特性によるためか、読む速度が印刷本に比べて2割から3割低下するという。電子本は読みづらい。また電子本は画面に表示されているページ以外の所在感が希薄なため、読者は今自分がどのあたりを読んでいるかの認識(見当識)が得にくい。これがこれまでの印刷本で習慣づけられてきた読書の感覚からすると読んだ中身を理解し構造化することが妨げられるというのだ。その例証としてはディスプレイ上で概要を見つつも、中身をしっかり読むためにはプリントアウトするという人が多いということをあげている。
そうした電子本のマイナス面はまんま印刷本の長所となる。個人所有され、読みやすく見当識も可能。
それでは電子本の長所は何か。著者はこれを七点あげる。

1.入手の容易さ(アクセシビリティ)
2.可搬性(ポータビリティ)
3.更新可能性(アップデイタビリティ)
4.規模(スケール)
5.検索容易性(サーチャビリティ)
6.様々な異なるテキスト間での相互参照可能性(インターテキスチュアリティ)
7.記号、文字、音声、映像と多用な表現媒体の組み合わせ(マルチメディア)の可能性

さてと、以前私はリーダー(電子書籍)がアマゾンからキンドルとして発売されたときに、たぶん状況は一気に電子書籍に流れていくように予見的に思った。その便利性と特に可搬性、さらに蔵書のための物理的スペースを必要としない点は得がたいもののようにも思えた。
そのときに頭の中で描いていたのは、CD音楽市場がiPodiTunesの出現により一気に変貌した過程だ。CDの出荷規模は10年足らずの間に半減、あるいはそれ以下にまで萎んだ。音楽を巡る環境はCDを買うから、ネット配信で買うに代わった。その過程を見ていただけに同じ類推から出版物も一気に電子出版に移行すると思えた。
でも実情はまだまだ過程の範囲であり、道中半ばという状況ではあるのだが、やはり本は違うと思わせるものがある。まあ平たくいって本と音楽の一番の相違は、本がそれ独自で完結したコンテンツであるのに対して、音楽コンテンツは元々それを聴くための道具が必要だったということ。ようはオーディオ機器がiPodのように可搬的で小型化したということ。それにより入手方法が変化したということだ。
この先、たぶん10年のスパンで出版業界もまた大きく変貌するだろう。たぶん間違いない。でもたぶんその頃には私は間違いなくリタイアしていることだろう。大きな変化をその渦中で目撃することなく、一読者として周辺から眺めていることになる。もちろん生きていればという前提のうえでだけれど。長く出版業界の辺境に住んできた住人の一人としてそれは幸福なのか不幸なのか。わからないな、可能性としては活字文化自体の終焉を目撃することになるのかもしれないのだから。