「桐島、部活やめるってよ」

http://www.kirishima-movie.com/index.html
桐島、部活やめるってよ - Wikipedia
評判は聞いていたのでいつか観たいと思っていた。DVDがレンタル開始となったので借りてきた。
直木賞をとった浅井リョウのデビュー作の映画化である。この小説もずっと気になっているのだが未読である。バレー部のキャプテンで人気者の桐島が突然クラブをやめる。そして学校に来ない。彼の不在を周辺の友人、知人たちの言葉によって描いていく。学内一のスター少年の不在によって学内の秩序が微妙にずれていく。そんな話だと聞いていた。
周囲の人々、ある種関係者の言葉によって描き出すという手法は、例えば湊かなえの「告白」と同種のものだろうか。それに対して映画はというと、主人公の不在を曜日による時間軸に再編成し、しかも同じシーンを視点を変えて何度も描き出すという重層的な表現手法をとっている。このタイプの描き方はというと、確か「バンテージ・ポイント」とかがそうだったように記憶している。あれは大統領狙撃事件を同時刻にその場にいた8人の視点から描き、事件の全貌と真相に迫ろうとするものだった。
そして本作「桐島〜」はというと、曜日による時間軸、視点を変えながら繰り返し同じシークエンスを描くこの手法は、うまいことはまったというべきだと思う。これは成功だった。
青春映画の傑作、そう感じた。そう青春映画が成功する要素をうまいこと取り込んでいる。まず役者がうまからず、いや十分にへたくそであること。これはこれでいいのだ。登場人物たちはみな高校2年生、17歳くらいだろうか。そういう子どもは、ある意味、生硬で不器用、とにかく生きることに十分へたくそなのである。そんなガキどもが観客を魅了するような十分な演技力を発揮するわけがないではないかと、そう私などは思う。そういう意味でこの映画の若き役者たちは十分にへたくそであることによって、そこそこのリアリズムを獲得しているのだと思う。
さらにいえば、この映画の中では誰も死なないし、男の子と女の子が寝ない。何度も何度も引用してきた言葉ではあるが、村上春樹がデビュー作『風の歌を聴け』の中でこんな言葉を書いている。

鼠の小説には優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なないことだ。放って置いても人は死ぬし、女と練る。そういうものだ。

最後の「そういうものだ」は村上が影響を受けただろうカート・ヴォネガットからの引用だろう。でも村上のこの定義にはある種の普遍性があると私は思っている。セックスと死、ドラマとしていえば、それらによって簡単にカタルシスが得られる。でもそれはあまりにも安直な手法だ。映画やドラマ、小説において、しかもそれらが安っぽいものであればあるほど、多くの場合、セックスと死が蔓延する。でも概ね我々の日常は概して、それらがありふれていつつ意外と何も起きずに過ぎていくのだ。
そういう何も起きない日常の中で、起きそうで起きないドラマ、得られそうでたぶん中々得られないカタルシス、そういうものの累積の中でどうやって詩情を、美を見出すか、たぶんひたらくいえば美的作品の真髄とはそんなところにあるんじゃないかと、たぶんえらく勘違いの部類ではあるが私はそんなことを思っている。
なにも起きない日常の中で、主人公たる人物が突然消滅する。そこで周囲の人々は右往左往する、それもえらく不器用に。でもだからといって、彼らの日常にはセックスもなければ死も身近ではない。いやひょっとしたらセックスだってあるかもしれないし、男の子も女の子も家でひそかに自慰に耽っているかもしれない。あるいは去年近くの団地から飛び降りたクラスメイトだっているかもしれない。でも彼らの切り取られた日常にはどうにもそれらとは無縁。それが彼らの無様な青春なのである。
この映画では多くの批評がある。中森明夫はこの映画を<青春映画の批評>作品と位置づけている。たぶんそのとおりだろう。中森にとって現代は<青春映画>=学園ドラマが成立しない時代だということらしい。学園ドラマを成立させる主人公、友人、恋人、ライバル、落ちこぼれ、愛、友情、裏切り、そういった要素がみな連関を失ったバラバラなものになってしまっているのだという。だからこそあるべき青春映画の批評として、こういう映画が成立している。だから観る側が戸惑うというのだ。
なるほどとも思う。「Meta youth film」とでいうべき代物なのか。私はというとそこまでの深読み、あるいは解釈ができなかった。中途半端でなんら収斂されることなく、放り出すようにして終わるラストについても、しょせんガキどもの青春なんてそんなものだろうとそんなことを思っただけだ。だから不在の桐島がベケットのゴドーであるとか、キリシマ=キリストだというのも、いわれたみればまさしくそうなのかもしれないとも思うが、私のあまりにも拙い教養からその発想はでてこなかった。
ゴドーがアイデンティティの喪失を主題にした不条理劇だとすると、この映画での桐島はある意味、周囲の人々のアイデンティティを保証するような人物=ゴドーということになるということなのでしょう。だから桐島の不在はそれぞれにとって、良き友、部活の中心選手、理想的な彼氏がいなくなることにより、自らのアイデンィティが崩壊していく。学園内での自分を自分たらしめるものが消えることによって、自分を見失ってしまいあわてふためく高校生たちを寓意的に描いたお話というのが、この映画のある種の解法ということになるのでしょう。
いわれてみると、本当になるほどなるほどというところだ。でもあえて言わせてもらえば、個々人のアイデンティティなんていうものは、実際のところきわめて脆弱なものだ。たいていの場合は、所属する組織であったりとか、血縁だたりとか、まあその手のものだ。例えばいったん組織から放逐されてしまえば、とたんに何者でもない誰かに陥ってしまうというようなものだ。
高校生にとってのアイデンティティとは、例えば進学校にいれば、進学校に属する僕、私というアイデンティティを形成するだろうし、イケているグループに属していればイケてるということへの意義を見出していく。逆にイケてない、ダサイ学校やグループにいればそういう劣等なアイデンティティを形成していく。でもいずれにしても、大人が獲得するようなそれよりもさらにヤワなもの、たぶんそれはアイデンティティのようなものでしかないだろう。
この映画が描いているのは、高校生=子どもたちが勝手に描いているであろうアイデンティティのようなものがいかにひ弱なものか。そして一旦それが崩れたときにどんな風に慌てふためいたしまうかを、何気にスケッチしてみせたということになるんじゃないかと思う。そういう意味じゃ、たいへん秀逸な青春映画(のようなもの)じゃないかと私は思っている。ある種、大絶賛的に評価しているし、けっこう好きである。さらにいえば、橋本愛はたぶん女優として大成することを予感させる恐るべきタレント性を備えていると思う。願わくば、「リング」みたいなキワモノに出ることなく、少なくとも作品を選んでくれるといいのだが。