西岡武夫参院議長死去

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中立的な立場が要求される参院議長でありながら政局的な発言や菅元首相に対する退陣要求を発言を繰り返すなど、異色な政治家だった。先の民主党代表選では、自陣営での候補者のいない小沢一郎から勧められて一時は出馬も検討していたという。いい年なのに権力志向、やる気満々の政治家でもあったのに、それから数ヶ月であっけなく死んだ。
自民党支持者を中心に民主党にあっては気骨のある政治家と賞賛する声もあるようだが、こいつは腰の軽いおっちょこちょいな政治家の典型だったと思うよ。新自由クラブ結成に参加しながら、一番最初に日和って自民党に復党。文教族の一員として影響力を誇示し念願の文部大臣に就任。93年に小沢一郎と行動を共にして自民党を離党し細川政権にも参加。その後は小沢と共に新進党自由党結成、民主党との合同にも参加した。
その場その場の政局でご都合主義、お調子者的に動いていく政治家の典型だったな。後、マスコミへの露出も多い政治家だった。70年代後半、それこそ新自由クラブ結成前後はこいつと、相次ぐ汚職でとっくに引退した山口敏夫あたりが、よく昼のワイドショーとかに出ていたのを覚えている。自民党内にいて体制内改革を叫ぶ新進気鋭の若手政治化というのがある種の立ち位置だった。あとえらく大袈裟というか時代がかかったものいいを、その頃からしていたな。
でも本質的には常に権力の周辺にこざかしく動く小物政治家だよ。地元での利益誘導もちょこちょこと地道にやっていたようだし、例の諫早湾干拓事業も推進派の急先鋒だった。もともと長崎県知事をしていた父親の提唱した事業を推進したというから、二代目政治家として親子で干拓事業の利権にひっついていたということなんだろう。
例の菅元総理への退陣要求だって、早い話が菅が諫早の水門をギロチンと呼んだこと、総理として開門を国に命じた地裁判決を受け入れたことへの恨みというきわめてわかりやすいものだった。おまけに立法府の議長の座にいながら、次の首相に候補に名乗りをあげようとする節操のなさ。とても良識の府参院の議長なんかをやる器じゃなかったということだ。
まあ最初からある意味胡散臭い政治家ではあったけれど、最後までそういう部分は変わらず。虎の縞は洗っても落ちないの典型だったということ。晩節を汚すみたいな言葉でくくるわけにはいかん。最初から政治家にあらず政治屋さんの典型だったのだから。
朝日の関連記事のなかでこの人と美輪明宏が同級生だったということでコメントを寄せている。その最後で西岡君と称しているのがちょっと面白い。西岡武夫美輪明宏が同い年であるというのが、どうにもギャップというか、頭の中でうまいこと結びつかない。逆にいえば美輪さんがあまりにも若すぎるということになるのだろうかね。