クレイジー・ケン・バンド

最近、妙にはまってしまっている。友人とかにも薦めまくっている。よせばいいのにカラオケとかでも歌う始末だ。
聴かせた友人によれば、なんとなくコミック・バンドみたいな認識だったとか。実をいえば私も同じような認識だった。CMでもよく聴くことができるし、あっ、あの曲かみたいな感じもある。ビデオ・クリップも何度か見たことあるのだが、いかにもキワモノぽかったりもする。でもなんとなく後を引くというか、耳に残る曲だった気もしていた。
たまたまTSUTAYAのレンタル、5枚で1000円の時に、なんとなく最後の1枚的に借りてきたのが8月の後半。それからあれよあれよという間に、5枚以上入手。iPod入れまくり、お出かけのお供に、車に、ジムに。自宅でも時間があれば聴きまくっている。
どこがいいのかって、ある種のセンスの良さということにつきるのだろう。ウィキペディアとかだと、やれ昭和歌謡だのという記述もある。確かに60年代テイストに溢れる曲想のものもある。基本はファンキー、ソウル、リズム&ブルース。これにボサノバ風味を混ぜて全体にメロー風というところか。これでは伝わらないだろうな。同じソウルといってもモータウンよりはフィラデルフィア・ソウルあたりがベーシックな部分にある、そんな感じだ。
バンド名の由来は、ジェイ・ガイルス・バンドのように個人名の入ったバンドを作りたかったということで、ヴォーカルの横山剣にちなんでいる。実際、横山剣のヴォーカル及び曲作りによって成立しているバンドでもある。彼の歌作りはオリジナリティがどうのこうのというのではなく、彼の音楽的記憶、彼の聴いてきた様々なジャンルのミュージックを抜群の音楽的センスを元にコラージュしたような、そういう感じである。このセンスが半端じゃない。さらには独特なユーモア、遊び心、洒落心溢れる歌詞。
この横山のヴォーカルがある意味七変化みたいな感じで、曲によってはやたら黒っぽくなったり、ある時は矢沢のエーちゃんになったり、ある時は和田アキ子になったり。ときにはシナトラになったりと本当にすごい。
1960年生まれで現在51歳。クレイジー・ケン・バンドを結成したのが1997年年のときだから37歳。ずいぶんと遅咲きなのである。長いこと下積みを送ってきたということだろう。彼のチョイ悪的な、なんとなく安っぽいヤクザな風情もまた魅力である。年の割りに妙に軽みがある。
さらにいえば横山剣はほぼ一環して横浜本牧をベースにしている。横浜へのこだわりも深く、ウィキペディアにはこんな記述もある。

横山剣横浜市のゴミ分別プロジェクト「ヨコハマはG30」のテーマソング『いいね! 横浜G30』や、横浜市立みなと総合高等学校の校歌の作曲を手がけるなど、地元に密着した地道な活動に力を入れているのが特徴である。

さらに長者町のライブハウスでも頻繁にライブを行っているという。
そうなのである。横浜、いやハマなのである。このバンドのセンスの良さ、軽み、洒落気は、ハマの感覚なのである。ちなみに今この時点で私の心情としては、現在の横浜と、私が考える「ハマ」はたぶんコンセプトというか、概念的にまったく異なるものだ。
たぶんそれはある種の横浜=ハマの神話的世界であり、それは現在の地理関係でいえば横浜市中区の、元町、中華街、山下町から本牧近辺あたりの小世界のことだ。元町近辺で産湯をつかった私がおぼろげに覚えている、たぶんあったかもしれない記憶のなかの世界だ。私はたぶんそれだけのためにいまだ横浜に本籍を残しているくらいだ。
矢作俊彦の短編ユーモア小説に「OUT OF BORDER」というのがある。人を食った馬鹿話だが、ハマへの共同幻想っていうのはたぶんこういうことなんだろうな妙に得心する部分がある。私のクレイジー・ケン・バンドに引き込まれるのは、こういうハマへの思い入れとも共通するんじゃないかとも思う。

OUT OF BORDER   矢作俊彦
「この町を出て行くんだよ」と、彼は言った。
例によって例の、女の子が一人で入ってきたら必ずパンティを置き忘れて行くにちがいないという、一昔前の雰囲気をかたくなに守っている横浜のバアだった。その雰囲気が好きで通っているなどと、夢にも思わないでいただきたい。ここでは今も、マーティニが一杯四百五十円(他には何のチャージもなしに)なのだ。
私は吹き出すのをこらえ、その日四杯目のマーティニを空けた(ジンの銘柄を指定したために、そ奴は四百八十円もする一杯だったのを忘れない)。
「昔、そんな歌があったぜ」と、私は隣の大男に言った。
「夜が明けたら、いちばん早い汽車に乗って、この町を出て行くってのさ」
「あの女が歌った町は新宿だ。定置網にひっかかった鰯みたいな百姓女が新宿のドブを出て行くって歌だ。一緒にしないでくれ」
大男は、不快そうに唇を曲げた。私より、数年早く、二十代を終えた男だった。警官といざこざをおこしても、まあ新聞に顔写真が載るほどのことはなかったし、一般に横浜湘南の不良の更正施設と呼ばれているものの、文部省が認可した四年生の大学を卒業していた。就職はしなかった。外車の個人輸入から店を興し、1957年型のTバードとか、ポルシェ・スパイダーを、法外な金額で売りつけ、一年のうち七ヶ月、ぶらぶら遊んで二十代をすごしたのだった。
「本気なんだぜ」その彼が熱心に言う。
「俺はね、もう厭なんだよ。横浜にいるのが、とてつもなくね。知っているか、来年になると本牧のベースが返還される。跡地に三十万人が住める公団住宅が建つ。どんな奴らがやって来ると思う?松戸とか春日部に本来なら住む連中が、鏡台とカローラとカラオケ・セットを担いで越して来るんだぜ。八代亜紀の歌声が流れる窓辺にセンベイ布団がひるがえるんだ。本牧の緑の丘にだぜ。ジェーンがローラスケートをしていた丘にだ。俺がキャシーと接吻した丘にだ。もう、まったく、厭なこったとした言いようもない」
「工場が建ったおかげで、オブナを釣った川がなくなったって嘆いている福島県の百姓兄ちゃんと変わらないじゃないか。そんなこと、世界中で起きているさ。二十年前から原宿に住んでるデブのコラムニストが、竹下通りを悲しんでみせるのと同じさ」
「いや、同じじゃない。奴らとは、本質的に違うさ。絶対に違うさ」彼は、きっぱりそう言いきった。いやに確信にあふれていた。
「どこが違うんだ」
「どこが違うか。俺には判らない。判らないから余計に腹がたつ。しかし、違うことだけは確かなんだ。俺はここで生まれたしここで育って、ここで一人前になった。最近、俺は"愛と死を見つめて”って気分だ」
「なんだ。それは?」
「死にかけの恋人の手を握って暮らしてるってことさ。『愛と死を見つめて』なら、まだいいんだ。あの映画で、吉永小百合はかなり美しく死んだからな。ところがこっちは、あんな生やさしい病気じゃない。痩せ細って皺だらけ、ものすごい速度で年をとってく病人だ。俺の手の中で、吉永小百合の手が、三益愛子の手に変わって行くと思やいい」
「すばらしく感傷的だな。そんなこと、今にはじまったわけじゃない。たとえば、南京街にガード・レールができた。本牧通りから市電がなくなった。それだけで俺は腹をたてた。たてたけど、それはそれまでの話さ。フクゾーに埼玉ナンバーの牝ジャリが集まってくるからって、避けて通るわけにはいかないよ」
「今度のはそういうんじゃないんだ。一ヶ月前、車で町を走っていたらな、ぱっと違って見えたんだ。ほら、小説なんかでよくあるだろう。女房がぜんぜん、他人に見えたって奴さ。あれと同じなんだ」
「それは、判らないことじゃない。だいたい、生まれてから三十年も同じ町に住み続けるなんていうのが不健康なんだ。たとえば、結婚して三十年、女房意外の女と寝たことのない男が、おおよそ気持ち悪いのと同じにな」
「それともまた違うんだ。俺は出て行くぜ」
「どこへ行くんだ。西海岸か?」
不思議そうな顔をして、彼は私を見つめた。
「西海岸?アメリカのか?」
「だって、仕事があるんだろう?」
彼は顔を振った。
「馬鹿言え。磯子区だよ。土地を買ったんだ」
『複雑な彼女と単純な場所』(東京書籍刊1987年)

東京書籍版の単行本は絶版のようだ。後に新潮文庫からも出ていたようだが、こちらも品切れのようでアマゾンでは出品者から入手可となっていた。著作権のこともあるので全文引用はまずいのだろうが、入手が難しいとなると話しは別だ。再刊されるといいのにね。
話はいつものように脱線のスパイラルだが、クレイジー・ケン・バンドのベーシックな部分での洒落気、センスはまさしくハマ的な感覚である。そのへんが私の琴線に触れるのだろう。
話は変わるがこのバンドのヒット曲「1107」、あの西友のCMでそこそこ評判になったあれ、私は長いこと世良公則の歌だと思ってました。ああ恥ずかしい。

そんでもって最初に戻ってだな、今回紹介するアルバムの中では2曲目の「男の滑走路」、このシナトラのスタンダードナンバーのパロディが秀逸。さらには4曲目の「ガールフレンド」これもいい。たぶんだいぶ年下の若い娘にとち狂った大人の男のふざけた純情みたいなものを、けっこうせつせつと歌い上げる。「宇宙の何処にもないほどの強烈な孤独が孤独が押し寄せてくる」という歌詞がせつないね。もう私などはとっくに失ってしまった感性かもしれないけど、恋するってきっとこういうことなんだろう。