伊の「脱原発」決定「集団ヒステリー」自民・石原幹事長

http://www.asahi.com/politics/update/0614/TKY201106140605.html

 自民党石原伸晃幹事長は14日の記者会見で、イタリアの国民投票原発反対派が多数だったことについて「あれだけ大きな事故があったので、集団ヒステリー状態になるのは、心情としては分かる」と語った。福島第一原発事故を念頭に置いた発言で、表現が不適切との批判が出そうだ。
 石原氏は「反原発と言うのは簡単だが、生活をどうするのかということに立ち返ったとき、国民投票で9割が原発反対だから、やめましょうという簡単な問題ではない」とも述べた。

 不覚にも今のいままで、この発言親父の慎太郎のものだと思っていた。私のリテラシー能力の欠如なんだろうか。読解力の不足というか、老化による誤読力の強化というべきか。
15日朝日朝刊の4面政治欄の下部に載っていたベタ記事である。見出しを見て、「集団ヒステリー」で「石原」である。また老害の極地、慎太郎のボケが空気読めないアホ発言しとると勝手に思い込んでしまった。でもな〜、ヨーロッパの反原発のうねりを、「集団ヒステリー」の一言で片付ける傍若無人さ、日本中の政治家でかくも無神経な発言を平然と口にできるのは、我らがスーパー都知事だけだろうと、まあこれまでの政治的文脈からすれば、それはそれで素直な反応ではないかと、なんとなく自己弁護を図りたくもなるのが、人情ではないかと、そんな気もしてならない部分もなきにしもである。
しかし、このとんでも発言が親父ではなく、倅のほうだったとは。まさに血統の濃ゆさの証明ということなんだろうか。でもこいつの戦時的感覚の鈍さ、国際情勢に対する認識の欠如もすごいものである。そこまでして守りたいのか原発を、あるいは原発利権をと思いたくもなる。
「反原発と言うのは簡単だが、生活をどうするのかということに立ち返ったとき」って、原発災害に直面したフクシマの人々の生活に立ち返えれば、原発に反対を唱えるのはきわめて自然なことではないか。しかも放射能の問題はフクシマだけでなく、関東全域にも及んでいる。汚染被害という生活に直面した問題を無視して生活を持ち出す思考がまず破綻しているとしか言いようがない。
国民投票で9割が原発反対だから、やめましょうという簡単な問題ではない」というが、この男は民主主義の本質に対する理解が欠如しているのではないか。9割の民意に依拠しない政治など存在するわけがない。だからこそ原発推進の旗振りをしていたイタリアのベルルスコーニですら「原発にさよなら」と敗戦の弁をしたためているのである。石原ジュニアの発言はまさに民主主義の否定である。
9割の民意をも退けて推進しなければならない原発中心の生活、経済とはいったいどんなものなのだろう。たぶん原発推進により、税金を湯水のようにジャブジャブ使いまくり、その恩恵に浴するということなのだろう。その蜜の味が忘れられないから、フクシマの現実から目を背けて、原発なき生活は暗黒とばかりに、原発の維持推進に邁進しているのだろう。
ただし反原発といっても、今すぐに総てを停止、廃炉にしろといっているわけではもちろんない。54基の原発をすべて廃炉にするには気の遠くなるような時間が必要なのである。おそらく生きちゃいないだろうね、私などは。でも、今そういう方向性が示されないと、子どもたちの世代に大きなつけを回すことになると、そう考えているだけなのである。
聞けば現在停止中ないし検査中の原発は再開しなければ、近い時期に42基の原発が停止になるという。
asahi.com(朝日新聞社):夏の電力切迫の恐れ 全国の原発54基中42基停止も - 東日本大震災
とりあえず稼動中の原発の操業をストップするのはそれほど難しいことではないのではないかと、素人考えでは思う。検査に入った原発をそのまま停止させれば、数年のうちに54基の原発の操業は中止できるということか。それから長い年月をかけて廃炉の方向性を出していけばいいだけのことである。
原発が止まれば電力不足に陥る。いたしかたないでしょう。その不便、経済的な損失、そうしたもろもろを我慢して受け入れる覚悟はある。まあそれが普通の庶民感覚というものではないかと思う。
菅首相を積極的に支持する気などさらさらないし、民主党に対しても正直幻滅している。ただし、ただしである。石原ジュニアのような輩が幹部としているというだけで、少なくとも現在の自民党に対して好感を抱くことはない。いやもっとはっきり言うよ、絶対に自民党に票入れたいとは思わない。こいつらが政権に返り咲いたら、とたんに原発問題にフタをして、問題をすべて封印、捨象。ほとぼりが冷めたら強引に原発推進ということになるのだろう。
石原ジュニアよ、君の発言、認識は間違っている。