震災雑感

地震については様々に考えさせられることばかりだ。毎日の繰り広げられる報道からも被災地のシビアな状況はひしひしと伝わってくる。それにしても被災地域が多すぎる。青森から福島、茨城までである。しかも地震とそれに続くあの巨大な津波。初期報道でヘリコプターから撮った宮城の平野を襲う巨大な津波を見たときから、今回の地震の被害はとんでもないことになるだろうとは確信を持ってはいた。おそらく万単位の死傷者が出るのではという、不吉な予感もした。10日を経過した今、それが現実になっている。
被災に遭われた方々の状況もしんどい。ただでさえ底冷えのする時期に、体育館とかに詰め込まれるようにして生活している。そこでは食料を含めた生活用品が圧倒的に不足しているのだから。
支援物資が主要地域まできているのに避難所に輸送できないでいる。なぜか輸送手段の燃料が枯渇しているからである。首都圏で物凄い勢いでガソリンが消費されている。その影響もあってか被災地に深刻な影響を与えているという。
あれだけの大災害でありながら、被災地では暴力事件、暴動の類はほとんどないという。被災に遭われた住民たちは秩序立った生活を送っている。それが海外メディアに紹介され、日本人の美徳として賞賛されているのである。とはいえそれにもきっと裏はあるだろうと思う。おそらく報道されないけれど、小さな暴力沙汰はたぶん繰り返しおきているのではないかとも思う。なぜかそれは人間の悲しい性でもあるだろうから。地震被災地でそうした事象があることは阪神淡路のときにも報告されていたように記憶している。
しかし被災地の混沌以上に問題なのは、首都圏の消費パニックのほうではないかと。ひょっとしたら、首都圏にも地震が起きるかもしれないといった風評や、品不足が起きるという噂を基にした過剰な消費行動。そこにガソリン不足による物流ダウンが拍車を欠けている。地震以来、近所のスーパーでも食品売り場にはまともにモノが陳列されていないのである。特に卵、牛乳、納豆などはいついっても売り切れ状態なのである。
70年代に起きたオイルショックに起因した買占めパニックは、我々の世代にはしっかり記憶されている。笑い事ではなく主婦たちが、トイレットペーパーを我先に争って買い捲ったのである。
歴史は繰り返す、二回目は喜劇として。そんなことをのたまったのはマルクスだったっけ。今、首都圏で繰り広げられているガソリンを求めて行脚するドライバーたちの姿は、悲劇にして喜劇の様相である。だいたいこれだって風評に基づいた行動だし、ガソリンが入手できなくなるという噂を元に、我先にガソリンスタンドに集中したことで事態は最悪の方向に向かっているのである。
だいたい三ヶ月に1度程度しか給油しない輩までが我先にガソリンスタンドに向かうのである。通常のガソリン消費の数倍は軽くいっているだろう。そりゃガソリンだってなくなるだろうとは思わざるを得ない。消費者たる一般市民達は、自らの行動によって、自らの首を絞め続けている。さらには地震の被災者たちに追い討ちすらかけている