西原理恵子の結婚観は正しい

先日、池袋に出たときにジュンク堂で購入したのがこの本。

週刊新潮の巻末にずっと連載されているのは知っていたし、時々読んでもいる。かって外務省のラスプーチンなどと呼ばれたらしい(ほんとか)佐藤優の骨太コラムとおちゃらか西原の漫画のコラボである。
相当なミスマッチなはずなのだが、意外や抜群の化学反応を起こしている。このへんは新潮の名物編集者中瀬ゆかりのセッティング能力なのだろう。
ただし佐藤のコラムと西原の漫画は互角、対等かというと、明らかに西原の漫画が文章を凌駕している。多少贔屓目にみている部分があるかもしれないが、着眼点、バイタリティ、立ち位置、存在力、すべてにおいて西原のほうが上ではないかとも思う。
まあそれはおいといて、通して見ていたときに、夫婦別姓をテーマにした回での西原の漫画がとても印象に残った。ネームだけを引用してみる。

前に香港の老富豪に聞いたことがある。
「あなたにとって夫婦って何ですか」
彼は笑って
「戦友だよ」
と言った。
お互いに仕事を持ち お互いに恋人もいたり、(一応相手にはナイショ)
月に何度か一緒に食事をする。
「話すことはたくさんあるよ。仕事のこと 子供のこと。」
「お互いの体のことや神様や人生。」
私は今までのどの人たちよりも この夫婦が理想像に思えた。
夫婦は恋人じゃないれな。
夫婦はどちらかがどちらかにたよってもダメだ。
ながいながい人生 戦友であること、親友であること。
手をずっとつないでいるために必要なこと。
それは自分の足できちんと立つこと。
娘にはいつも言う。
「結婚なんてどーでもいいけど 子供を生む時に無職だけはダメ」
「相手の収入に自分と子供の人生をまかせない」

この娘に言うという言葉がとても好きだ。ジェンダーだの、家事労働は不払い労働だの、女性の自立だのと小理屈を並べるよりも、もっとずっと簡単な言葉でことの本質を言い表せているようにも思う。
夫婦が相互に依存するのはいいけど、一方が一方に対して完璧に依存しては駄目であること。それは互いの自立性をそこなうことでしかないということ。
私自身、同じような意識でずっと夫婦をやってきた。妻には、仕事のストレスからか、どことなく専業に逃げたいという思いもあったようだが、それをなんとなく許さないような雰囲気を作ってもきた。お互いが外(社会)に出て金を稼いでくる。家事労働、子育ては分担して行う。平たくいって共稼ぎのことだけど、それなりに理論武装、意識づけはしてきていた。
もっとも妻は病気になってしまったので、現在はというとある意味、私に全的に依存することになってはしまった。それでも妻が障害者となったときに割りと最初に行ったのは、妻がきちんと障害者年金が受け取れるための手続きに奔走したこと。
妻がこれまでにきちんと仕事をしてきて、そこそこの収入を得てきていた。当然きちんと年金のための掛け金も払ってきたいた。そこでたまたま大きな病気で大きな障害を抱えて働けなくなってしまった。
そうした人への例外措置としての障害者年金と私は認識している。それはある意味では妻の収入だと思っている。だから意味合いは少々異なるかもしれないが、妻もまた自立している部分でもあるのだとは思う。
私もある意味、西原と同じようなことを娘に何度も言ってきたし、たぶんこれからも繰り返し話していきたいとも思う。自立すること、自分の仕事をもつこと。結婚しても仕事を続けること。それが社会人としての、いや人間としての基本的な在り方じゃないかということだ。
ここまで言い切ると、なんともはや専業主婦の方をある種全否定しているようで若干心苦しい部分もあるにはある。三歳までは子育てのために母親がつきっきりのほうがいいという三歳児神話とかいろんな話もある。でも概ねそれらは二十世紀の後半くらいのところで、それもアメリカを中心とした文化圏で喧伝されたデマゴーグみたいなものでしかなく、さほど真理性のあることでもないのだ。
確実にいえるのは第三世界では、女性も大きな働き手、あるいは男以上に主要な労働資源だったりもしているのである。女が主婦として家事労働に専念しているなんていうのは、限られた文化圏、しかも比較的富が集中した豊かな国、社会のなかだけでのことだという認識もあっていいとは思う。ちょっとジェンダー系に振りすぎているかな。
西原のストレートな自立観は何度もいろんな形で目にしている。その中で一番はっきりと書いてあるのは漫画ではなく、おそらく彼女が語ったことを文章にまとめた本であり、今はなき理論社から出された「この世でいちばん大事な『カネ』の話」の中にある。
ちょっと長いけどそのまま引用してみる。

わたしには、息子だけじゃなくて娘もいるからね。女の子の人生についてもちょっと思うところがあるので、言ってみたい。
それはね、「旦那の稼ぎをアテにするだけの将来は、考え直したほうがいいよ」ってこと。
うちの娘も、まだ小学生なのに『マリー・アントワネット』の映画を観て「あんなドレスが着たい」ってうっとりしてる。やっぱりね、そういうのを見ていると、つくづく思うよ。女の子のお姫様願望っていうのは、生まれつきDNAに刻みつけられてるんじゃないかしら?
だけど、もし女の子たちが、大人たちの、やれ勝ち組だ、負け組だ、格差がどうしたとかいうせちがらい議論をするのを耳にして、「貧乏するのはイヤ。将来は絶対に高収入の男の人をつかまえるわ。専業主婦でも、わたしはより優雅でセレブな妻の座についてやる!」と思うあまり、ひそかに「年収一千万以上の男をつかまえること」をもくろんでいるとしたら、悪いことは言わないから、そんなもくろみは、さっさと取り下げたほうがいい。
だってリストラや倒産、失業みたいなことがこれだけ一般化している今の時代に「人のカネをあてにして生きる」ことほど、リスキーなことはないんだから。
「昨日まではもらえていたカネが今日からは出ない」なんていうことがザラに起きているのが「今」でしょ。そんな不安定な時代に「旦那から愛される」ことだけを担保に生きていくなんて、危険があまりにも大きすぎる。せっかくつかまえた白馬の王子様だって、あしたにはゲロゲロ文句ばっか言う、ただのヒキガエルになっちゃうかもしれないよ。
人の気持ちと人のカネだけは、アテにするな!
「合コンでは男子におごられてあたりまえ」という延長に「左うちわな将来」を思い描いているんだとしたら「いざ(旦那が)失業」「いざ離婚」ってなったときに、あなたはどうやって生きていくんだろう。
逃げちゃってもかまわない、ってわたしは言った。働いていても充実感がにあ、思うような仕事もできないとなると、そういう目の前の現実から逃れるために、女の人が結婚を「避難場所」にすることは、よくあることだと思う。でも、もはや「結婚」が「避難場所」として成立しなくなっているのも、もうひとつの現実だよね。
何より、人の気持ちとカネをあてにするっていうのはさ、「自分なりの次の一手」を打ちつづけることをみずから手放してしまうってことなんだよ。「わたしの人生、それで本当に楽しいものになるのかな」ってことを、女の子にはぜひ考えてみてほしい。
「この世でいちばん大事な『カネ』の話」P193〜195