自衛隊は暴力装置

国会が閣僚の失言問題で迷走している。柳田法務大臣の例のやつは問題外である。パーティーで支持者の前ということで緊張の糸が切れたのか、ある種の本音なのだろうが、あれはあかんだろうとは思う。
しかし仙石官房長官の「自衛隊暴力装置」の発言はというと、私なんぞは別にいいじゃないかとも思う。自衛隊は軍隊である。ある意味国が認めた唯一の暴力装置である。文字通りなのである。国の指揮権発動によって、殺人を合法的に許された集団、機関なのである。軍隊ってそういうものじゃないのか。それとも自衛と災害救助を専門にしたセミプロの”軍事組織”なのか。
仙石にしろ菅にしろ、自衛隊の皆さんに失礼だったみたいな形で前言を撤回している。これに対して現役自衛官からも怒りとか失望の声が出ているとも。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/101118/plc1011181837017-n1.htm:TITLE
 考えようによっちゃ、こっちのほうが問題だと思うぞ。現役自衛官には、自ら軍人として暴力装置に徹する覚悟なり自覚がないのかとあえて言いたい。君たちの使命は「国の平和と安全を守るためだ」であることは言うまでもない。そのために「命を賭(と)して国を守る」という気概なり自覚は必要だ。しかしその手段として君たちが行使するのはなんだ。救援物資の補給か、それだけか。銃だろう、武器だろう。君たちは国のために、国民の平和と安全を守るために、命令されたら躊躇することなく相手を殲滅しなくちゃいけないのだ。そういう意味じゃ暴力装置なんだよ君たちは。
出来レースの懸賞論文からいっぱしの文化人気取りしている田母神みたいなへ理屈は軍人には必要ないし、自分たちを装置と規定されてセンチメンタルに異議申し立てしてはいけないんだよ。それが軍人たるものだろうと思う。
軍隊は軍隊のアイデンティティとして、きちんと暴力装置としての自覚、冷徹な自覚をもっていないと戦争に勝てないと思うぞ。いつか時期が来たら局地戦的に北朝鮮とか中国とかと衝突するかもしれない。そういうときにわが国の暴力装置はきちんと対応できるのか、なんかちょっと疑問でもある。
それはそれとして仙石氏は国会答弁で暴力装置という言葉を使ってすぐに撤回した。これは言葉の妥当性としてはまったく間違ってはいないとは思う。軍隊=暴力装置だからだ。しかし言葉のTPOとしてはやっぱり使い方間違ったかもしれないとは思う。政治用語としては暴力装置という言葉はどうにも反発をまねきそうだから。そしてなによりもその言葉がなんともはや、哲学的というか、文学的な意味あいをもっていそうだから。まあなんつうか言葉、用語のもつ多義性とか、コンテキストとか、そのへんの問題なのかもしれない。