大阪・2児置き去り

http://www.asahi.com/national/update/0822/OSK201008210202.html
朝日の朝刊に載っていた記事である。餓死した2人の子どもの写真入りである。なんともしんどい話である。
この事件を報道で見聞きしたときから、なんとも居た堪れない、たまらない気持ちになる事件だった。死んでゆく子どもの状況を想像するたびに、本当につらい、しんどい気持ちになる。
歳がいってきたせいか、みょうに涙もろい心持でいる。小さな子どもを見ると、どの子も可愛くてしょうがない。つい見入ってしまい、子どもと目があうと微笑みかける。ベビーカーや母親に背負われた赤ちゃんが、にっこりしてくれたりするとよけいに嬉しい気持ちになってくる。
母親がこちらに気づいて、同様に微笑んでくれたりするのも有難い。ときには怪訝な顔をされることもある。そりゃ、どこの馬の骨ともわからないジジイがヘラヘラしているのだから。その時はすかさず、視線をそらして気まずい思いから逃れる。
そういう子ども好きの心性からすると、子どもたちが不幸な境遇にいるということを想像するだけでかなりしんどい。虐待の状況如何では、しんどいを通り越した生き地獄のような状況だ。同じ大阪で起きた、虐待の果てにベランダで衰弱死した少女の事件なども正直、報道を目にすること自体つらいことだった。
今回の2児を遺棄し死に追いやってしまった事件。もちろん若い母親にも様々に事情はあるにはあったのだろう。きけば父親は教育者でラグビーのコーチだとか。たぶんに家庭を顧みることのない人間だったんだろう。熱心に教育というか、人の子の面倒を見るのに、自分の子の面倒は母親まかせである。この父親の場合、若い時に妻と離別しているというから、ある意味仕事にかまけて、子育てを放棄してきていた可能性もあるのかもしれない。
そう、あの若い母親もまた、ネグレクトされて育った可能性もあるということか。しかしね、こういうのって、いつも言われることなんだろうな。片親の子は、親と同じように離婚するとか。虐待されて育った子は、同じようにわが子を虐待するとか、うんぬん。それがどれほどの事実性に基づいているのかどうか。科学性を抜きにした、因縁話に堕しているとしか思えないのだけれど。
また多くの児童虐待の背景として説明される貧困の問題。たぶんそれが一番の理由なのかもしれない。そこそこに豊かな社会にあって、セーフティネットから漏れていく人々たち。彼らの荒んだ生活こそが虐待の一番の理由なのかもしれないということだ。
そういう意味では、児童虐待など現代における新しいタームでもなんでもないことなのかもしれない。子ども、あるいはそれを弱者として置き換えてみた場合に、弱き者への虐待、攻撃、遺棄その他もろもろは、太古の時代から連綿と続いていることなのかもしれない。年寄りを棄てる姥捨てだの、生まれたばかりの子を生活のために殺す間引きだのは、昔からずっと続いていたことだ。
近代以前の日本社会にあっては、例えば子どもへの虐待とかは普通に行われていたのではないかとも思う。そういう歴史があまり語られていないかもしれないが、たぶん子殺しだの、児童への性的虐待だのは、地方の貧農層では普通にあったかもしれない。それらの根源的な理由はただただ貧しさと無知にあるのははっきりしているからだ。
子どもへの虐待を昔からあったことと、それを少しでも肯定というか、一般化してどうのというつもりはさらさらない。ただその理由があまりにもはっきりしているということだけを明示しているだけだ。
子どもが生きやすい社会とはどういうものか、とにかくインフラ整備して、子どもが生きていくための環境を作ることだ。親がいなくても社会がきちんと子どもを育てられる世の中を作る。それが多分一般論的にいえば一番必要なことなのだろう。社会主義だの高福祉だのといわれようが、絶対にこの部分だけは譲れない。
実際そうでもして、子どもを社会が育てる仕組みを作らない限りは、今の少子化に歯止めはかからないと思う。今や共稼ぎしてなんぼの低賃金が普通の世の中だ。それでも子どもを預ける場所が不足しているため、母親はフルタイムで仕事をすることを断念せざるを得ない状況にある。
小泉改革以降の自己責任社会にあっては、いったん仕事を失ったり、離婚して母子家庭になったりしたとたんセーフティネットの網をすり抜けて奈落の底へ落ちていくのである。そこから這い上がるのは至難の業である。そうした地の底にはいつくばって、日々の生活の糧を手にし、子育ても続けていかなくてはならない。
2児を遺棄した若い母親が転落したのもそういう生き地獄だったはずだ。彼女はそこで子どもとともに懸命に生きていくことを放棄して刹那的な愉楽を求めるようになって。そして子どもたちをさらに凄絶な地獄へと追いやったのである。
とまあ社会的な見方からすれば、ままそういうことになるのだろうと思う。しかし、しかしである。世の中には子どもを遺棄することもなく、また虐待することもなく、懸命に子育てに、仕事に励んでいる若い母親たちも沢山いるのである。だからなんでもかんでも社会のせいということにはけっしてならないだろう。
そのうえであえて言う。今回の2児を遺棄した母親について。出来れば厳罰に処すべきだと思う。今の刑罰でいえば遺棄等致死傷は3年〜5年くらいの懲役である。1歳児、3歳児の子どもを置き去りにすれば、どうなるかは予見できる。おまけにこの母親は玄関や台所に通じるドアを粘着テープで固定さえしていた。この事実一つをとってもこれは、はっきり殺人罪を適応すべきだ。
遺棄等致死傷にしろ、子どもへの虐待に適用されるだろう傷害致死にしろ、もっと厳罰化していく必要があるだろうとは思う。厳罰化によって犯罪がなくなるか、たぶんなくならないだろう。厳罰化は市民社会の趨勢としてはどうか、うんぬん。いろいろな考えがあるだろうとは思う。
しかしだ、例えばこういうこともある。危険運転致死罪や飲酒運転に対する厳罰化が進んだ現在、誰もが飲酒運転を控えるようになった。かっては軽くビール1〜2杯飲んでの運転は普通だったのに、それをやる人間がほとんどいなくなっているのである。厳罰主義はこういう心理的規制にもつながるのである。
子どもを遺棄して死に至らしめたら、そこで人生は終りになる。子どもを虐待して死なせてしまったら、その後の人生のほとんどを刑務所で過ごす。あるいは死を課せられるかもしれない。そういう厳罰化もある種の心理的規制につながるのではないかと、正直思う。
さらに、さらに思う。ここからは多分合理性のかけらもない、ジジイのたわ言ではある。若い子はセックスするな。あるいはセックスしてもいいけど、きちんと避妊しろと。そしてさらに言う。貧困にあえいでいる人間はきちんと避妊しろと。
でもたいていの場合、貧困と無知は同居しているから、避妊の知識とか、そういうのが欠落しているだろう。いっそのこと10代から20代のあまり生活能力のない男性、あるいは30代、40代に限らず、貧困層の男性は強制的にパイプカットしてしまえばいいと。ようは去勢である。パイプカットだから、金が溜まって子ども作れる環境になったらバイパス通せばいいだけだ。
なんかもう強引というかとんでもない暴論である。ファシズムとかアンソニー・バージェスあたりの近未来SF小説みたいな話でもある。でもね、子どもに生き地獄をみさせる親たちがいるという現実を思うと、そういう極論さえ、ありかなと考えてしまう部分もあるにはあるのだ。
もっとも、発展途上国、あるいは最貧国にあっては、子どもへの虐待が当たり前であるという事実もあるにはある。それもまたこの世界の現実なのである。