ウルトラミラクルラブストーリー

ウルトラミラクルラブストーリー [DVD]
これもTSUTAYAでレンタルした。全編津軽弁のラブストーリーというのを確か朝日のレビューで見ていた。とりあえず観てみようかなと思わせるような、そんな好意的な批評だったので、ずっと気になっていた。
ただし前知識はそれこそそのレビューだけで、監督の横浜聡子についても知識は皆無。松山ケンイチ麻生久美子が出ているというくらいで、全編青森でロケし、東京からやってきたという設定の麻生久美子以外の役者は総て津軽弁で話すので、字幕スーパーが必要みたいなことがいわれていると、まあそのへんが総ての知識だった
ここからは普通にネタバレ的に書いていく。彼氏を交通事故で失い東京から青森にやってきた保育士の女性扮する麻生久美子に農家の青年、松山ケンイチが恋してしまい、一途に猛アタックしていくというのがお話のメインストリーム。でもその保育士の女性も訳ありで、死んだ彼氏の首がいまだに見つかっていないとか、そのことで霊媒師に会うために青森にやってきたということも最初に明示されていたり。松山ケンイチ演じる青年も単なる純情な農家の子息ではなく、明らかに知的障害がありそうな感じである。
そういったことが付加されつつも映画は途中からどんどんと変な方向に向かっていく。松ケンは農薬を体に浴びると意識がどんどん明晰になって普通っぽくなっていくのだが、途中からは心臓の音がほとんどしなくなってしまい、はては完全に心臓止まって死んだはずなのに普通に生きていたりとか。最後には猟師にクマと間違って撃たれてきちんと死んで、遺言で保育士の手元にホルマリン漬けの脳みその標本として戻ってくる。
その脳みそを持って保育士は子どもたちと山に遠足に行く。そこで脳みその標本の瓶取り出して、ハンカチ落としならぬ脳みそ落としで遊んだりする。そこへクマが現れると保育士は脳みそを瓶から取り出してクマに投げつける。その時の麻生の表情が凄い。するとクマは脳みそをムシャムシャ食べだす。それを見ている保育士は不遜な笑みを浮かべたところで唐突に映画終わっちゃう。
このラストシーンはある意味、日本映画史に永遠に残るような衝撃的というか、恐れ入ってしまうような凄いシーンだ。そのほとんどを麻生のハーフショットだけでやってしまうのだ。この映画では多くの人が、松山ケンイチの演技の凄まじさを語っているようだけど、私なんかはこのラスト数分での麻生の顔の表情だけの演技が何にもまして素晴らしいと感服している。
それではこの映画の意味性ってどういうことなんだろう。おそらく観た人の数だけ解釈が存在しそうな映画だ。監督自身、あるいは公式サイトなんかでも理屈で考えるよりも体感する映画と受けとめて欲しいみたいなことがあったようにも思う。実際、理屈で考えるとどうにも納得しようがない部分も多々あるし、いろんなことが暗示された象徴性の高い作品なのかもしれない。
この映画を観た人はどんなことを考えているのかと思い、いくつかググってみると、このへんがけっこう面白かった。まあ詳しい粗筋もあるし。
裏#74 『ウルトラミラクルラブストーリー』ネタバレ解釈篇 (伊藤Pのブログ)
で、私自身の感想を断片的に書いてみる。
まず、この映画は秀作だとは思った。そして監督の作家性を強く感じた。純朴な青年の一途な思いといったストレートな主題がどんどん脱線してシュールな方向に行くという展開も嫌いではない。そのシュール性が青森という土着というか、まあ普通に田舎というか、そういう雰囲気と妙にマッチしていていい。なんか普通にかってのイタリアのネオ・リアリズム系映画の雰囲気みたいなものを感じた。いやリアリズムからそうじゃない方向に転化しつつあった頃のフェリーニみたいな、ある種のあけっぴらげな感じと不気味さみたいなものを感じた。
脳みそを食べるクマとそれを薄ら笑いを浮かべながら見ている麻生久美子とのカットバックで終わるラストシーンの不気味さは、ある意味フェリーニの「甘い生活」のラストの怪魚のそれを思い出させてくれた。両方に同義的なものは何もないけど、まあそれくらい気味悪くて、後味の悪い、インパクトのある終わり方だったという、まあそれくらいのこと。
麻生久美子扮する保育士に懸命にアタックする松山ケンイチの演技は凄いのだけど、それは純朴な青年のそれとは異なるある種の狂気性に近いものがある。実際どうみても松ケン扮する青年は知障としか思えない。それをあまり気味悪いとも思わず、付きまとわれて恐怖をも感じない麻生に対しても、なにか普通でないものを感じる。
はっきり言おう。この映画は実は冒頭からある種の狂気に支配された世界か、あるいはすでに異界、霊界の中での出来事を描いているのではないかと。例えばだ、麻生久美子扮する保育士は、彼の事故死が原因で精神を病んでいるのではないか。この映画で物語られるお話がどんどんととんでもない方向に向かっていくのも、精神を病んだ彼女の妄想、幻想の類なのではないか。松ケン扮する純朴な青年の思いも狂気の女性の目からはああういう風に見えてくるのではないかと。
そうやって見れば、ラストの脳みそ落としもクマのムシャムシャも総て彼女の狂気の幻想ということで、チャンチャンということになってしまうわけなのである。
そしてもう一つの解釈として。実はこのお話はある種の霊界譚なのではないかというもの。彼氏に死なれて青森にやってきたという保育士の女性は実はすでにこの世にいない人なのではないか。彼女は実は彼氏を失った悲しみから後追いして霊界にやってきたのである。その霊界での死者との交流が描かれているだけなのだ。霊界であれば、農薬浴びて時々リフレッシュする若者がいたって、まして彼の心音がほとんどなくたって、まあ普通でしょう。もともと死者なんだから。松ケンが首のない男(アラタ)と出会い、普通に話しをする奇妙でユーモラスな場面がある。首のない男はおそらく保育士の元彼なのだろうが、このシーンも霊界だから普通のことだし。
さらにいえば霊界だから脳みそ落としも、霊界のクマがホルマリン漬けの脳みそが好物なのも全然おかしくない。現世では意味不明なこともたいていは、まあ霊界のことだからで片付けられちゃうだろう。霊界田舎版ユーモア映画、案外そんなところなんじゃねえの、というのが私の思考停止した頭で結論付けたこと。根拠もなにもあったものじゃないけど、とりあえずこの映画面白かった。今年観た比較的新しい系の映画では、「バーン・アフター・リーディング」と並んでベストに近い作品だと思う。いや、実際。