事業仕分けは面白い

きわめて面白い政治ショーが毎日繰り広げられている。行政刷新会議による事業仕分けだ。公開の場で各省の高級官僚が痛めつけられている。素晴らしい政治ショーである。これまで密室で繰り広げられていた各省と財務省の予算折衝を公開の場に引きずり出したのだ。財務省主導とはいえ、そこはそれ、政治家が関与するのだ、効果的なものいいで官僚を追及する。おまけに追求する政治家たちにはある意味なんら責任がない。さらにいえば、この事業仕分け自体が予算に対しての責任を持っていないし、決定機関ですらない。まさしく政治ショーである。
とはいえ、これほど面白いものはない。各省の概算要求に対して、あるときは費用対効果の視点から、あるときは重箱の隅をつっつくかのようなこねくり回し、などなど。とにかくいつもえらそうにしている高級官僚を追及する。責任性が実は希薄であるという点からしても、これはある意味ポピュリズムの究極みたいな部分もあるにはある。でもみんなでやっている分、ある意味まさしく民主主義的ではあるかとも思う。少なくとも同じポピュリズムでもかっての小泉コーちゃんの言いっぱなし的ワンフレーズ答弁とか、やれ改革だのなんのというスローガンだけの政治よりは数段ましだと思う。
予算のエキスパートである役人たちによる予算の分捕り合戦をある意味公開したことには相当な意義があると思う。そこでの枝野や連舫たち突っ込みはある意味、これまでの自民党政権での政治の有り様を変えるような可能性を秘めていると思う。ある意味、民主党がずっと抱えてきている政治のアマチュアリズムみたいな部分が爆裂しているようなものだからね。
でも、これは絶対ありだと思う。少なくとも国民の視線に触れる形で、国家予算についての議論が行われているわけだから。それじゃこれまでの国会審議はなんだったのかという問題もある。でも国会での議論はある部分形式主義の範疇に入るようにも思う。テレビで映し出される部分はたいていショー化されているけど、多分議論とかはほとんど事前に手打ちされたうえでのことみたいなことだろう。
それからすると今回の公開事業仕分けはやっぱり画期的だと思う。やられる官僚側からは、やれ東京裁判だの、人民裁判だのという呪詛みたいなコメントが出ている。でもね本来、民主主義社会では、今回のような公開、国民衆知のうえで様々な意思決定が行われなくてはいけないのだと私は思う。
情けないのは文科省予算に見直し等が議論されたカウンターとしてなのだろう、やれ旧帝大の学長だの、ノーベル賞受賞者による記者会見が行われ、事業仕分けで削減を求められた科研費系の予算の維持に対する声明である。
確かに国家が科学に対して金を使うのは将来への投資的な意味あいはあるだろう。でもね、はっきりいっとく。明日飢えるかもしれない、あるいはその可能性がある人々にとっては、スパコンだのロケットだのは腹の足しにもならないのだということを。もう一つ思う。科学者は将来の布石のために湯水のように税金使う権利があるのかどうか。国民の側からすれば、漠然とした将来の夢だけでなく、より簡単でもいいから将来の夢の具体像をそこそこに示してもらいたいという声もあるだろう。
より端的に言わせてもらえば、科学者たちは少なくとも自腹切るのではなく、税金を使って研究をしているのだとしたら、研究費をゲットするためのプレゼンテーション技術を磨く必要があるのではないか。金引っ張るためにはそれなりの努力をすべきじゃないかと、まあこれが私の持論だ。