ゴミ屋敷

昨日は子どもの音楽会の後、かなり遅くまで寝ていた。起きたのが6時近く。それから夕食の支度をしてからなぜか根性でジムへ行く。8時過ぎくらいか。
ジムも最近はすっかりご無沙汰模様で、ならすと週1回ペースである。思えば5〜6月頃は週に4〜5回通っていたのである。それを思うとね、なんつうかもうあかんね。腹周りもなんとなく硬くなりつつあったのに、最近はまたまたプヨウヨしてきてるものね。体重も一時は着衣でも70きっていたのに、今はだいたい71〜72くらいか。ジムで2〜3時間、体いじめて最後に風呂で計るとなんとか69キロ台という状態だ。まあそれでも今年の最初の頃は77〜8キロあったのだから、おりあえず良しとしなくてはと、たいへん後ろ向きになりつつある今日この頃。
ジムではいつものようにマシンとランニング、エアロバイクなどを交互に行った。アイポッド聴きながら体動かしているのだが、ランニングとかのバイクとかの場合は画面上ではテレビをつけていることが多い。なんとなくチラチラ画面見るくらいで、興味があるもの番組とかお笑い系とかやっていると、アイポッドをとめてイヤホンをテレビのほうに差し替える。
この日、エアロバイクをやっている時になんとなくテレビに興味がひかれたのがこれである。
http://www.nhk.or.jp/tsuiseki/file/list/091121.html
ゴミ屋敷と呼ばれるゴミが集積された家のことはなんとなくニュースとかで見知っていたけど、かくも深刻な社会問題になりつつあるとは知らなんだとのが実感。偏屈なお年寄り中心の個人的な問題なんだろうと思う部分もあったのだが、番組でとりあげられた例は年齢や職種も様々だ。公務員や看護師などもいる。
ゴミを溜めてしまうのは、まず一人暮らしの高齢者が増えたことが一番の理由だろう。一人でゴミを仕分ける、ゴミ出しをする体力もない高齢の方が増えているのだ。そこにもってきてゴミの分別もどんどんと複雑になってきている。何度かゴミ出しができないでいるうちにどんどんと溜まり始めるということなのだろう。
その他にも育児や家庭内の様々なストレスに疲れて家事が思うように出来ない主婦、長時間労働で掃除など身の回りのこまごまを行う余裕のない若者たち。などなど、これはある意味困った人たちの特別な事情だけでは片付けられない問題なのかもしれない。
この番組ではこの問題の根底には地域や家庭の崩壊といった社会問題があるという位置づけのようだ。確かにそのとおりだろう。さらには過剰消費社会の問題があるという。そうそれが一番の問題なのかもしれないと私も思った。
モノ溢れまくっている世の中なのだ。どんどんと捨てて、どんどんと買い込む。有り余るモノ、それでもモノを作り続け、売り続けなければ成り立たない企業がある。必要に迫られての消費ではなく、過剰に増大する欲望に支えられた消費。企業は消費者の欲望を拡大させるためのイメージを増大し続ける。まあそういう図式なのだろう。
先進資本主義諸国がどこでも抱える普通の問題だ。解決策はあるか、たぶんある。生活を社会を、すべてをミニマムにすればいいのだ。地球上に存在する大いなる地域格差、南北問題の解決策と同様だ。南北の分配システムが大きく偏っているのだ、ここ数百年に渡ってのことである。その解決策もきわめて単純、分配システムを変えればいいだけのこと。北の人々はより貧しく、つつましい生活を送り、本来的な余剰分を南に再分配すればいい。そんな当たり前のことができない、それが複雑込み入った世界の現状ということなんだろう。
あのゴミ屋敷の映像を飢餓にあえぐアフリカの人々に見せるとき、どんな反応が返ってくるのだろうか。そんなことを漠然と考えてしまう。とはいえ総てはそんな簡単なことではないのだろう。ゴミを溜め込むような一人暮らしの高齢者たちもまた先進諸国日本ならではのことだろう。アフリカとかでそういう高齢者が生存できる可能性はたぶんないのだろうから。
しかしゴミ問題は確実に日常的なものになりつつある。私の住む町ではゴミ捨場は開発した住宅群ごとにある。私の住んでいる一角は比較的最近なので、14〜15棟の開発現場だ。当然ゴミ捨場もその中にある。でももっと古くから小規模に開発された住宅の場合、ゴミ捨場がない。一番近いゴミ捨場まで数100メートル離れているというのがけっこうざらであり、朝などお年寄りが自転車に乗ってゴミを近くの公民館に隣接したゴミ捨場まで持っていく風景とかを目にする。あのお年寄りは今60代だろうか。あと10年、15年したらどうするのだろう。自宅からゴミ捨場までの数100メートルが遥かな距離になっていくのは自明なことだ。
そのようにしてゴミ屋敷は日常的に増えていく可能性があるのだ。とはいえテレビで取り上げられるような家の中から、あるいは庭まであふれ出すようなゴミ屋敷ではなく、部屋の中にゴミがあふれた状態、とりあえず限定的にプチゴミ屋敷とでもいうような家がお年寄りの住む家では普通になっていく可能性がある。
もう一方で増えつつある若い人たちの間のゴミ屋敷、アパートやマンションの部屋がゴミで散乱する状態。ゴミの集積の上で寝泊りするような生活。これはもちろん文明の病ではあるけど、それ以上にモラルの破綻ではないかという気がしないでもない。私自身でいえば、特にきれい好きということはない。4LDKの一戸建てに住んでいるとなると、掃除は週に1回、それもとおりいっぺんとう掃除機をかけるだけである。洗濯だけは一応毎日こなしてはいる。加齢臭もあるしということもなく、とにかく毎日着るものが着替える。子どもにも当然そうさせている。
それが普通だろうという意識だ。家の中にゴミが散乱していたら、けっこう気分が悪い。もちろんほこりとかは普通にあるけど、例えば生ゴミとか、紙ゴミとかが床にあったら普通にゴミ箱に入れる。ゴミは毎日決まった日に出す。生ゴミは週2回だが、一度でも出さないとなんとなく気分が悪い。とにかく溜めるとより面倒くさいことになるから、出来るだけ毎回きちんと出すようにしている。これも普通だろう。それはある種の生活の規範、モラルの部分でもある。
当然、子どもにもそれは教えていかなくてはならないとは思う。でも親のやっていることを見ていれば、普通に身につける感覚ではないかとも思う。それが欠けている人々が増えている。そういう問題があるのではないか。家庭や地域の崩壊、そういうマクロな社会問題としてではなく、もっとミニマムな人の生き方の基本みたいな部分が微妙にづれてきていないかという、なんかそういう思いもある。
これは家庭での教育の問題か、あるいは学校での教育が悪いのか。またぞろ日教組でも持ち出すか。あるいはゆとり教育、もっと古くからの教育方針、中教審か。なんでもいい、モラル、倫理といったたががはずれ始めた社会が現出しているということがいえないかという気がする。
身の回りをきれいにする。ゴミは溜めない。ゴミはルール通りに出す。そういうことが普通の生活のあり方の基本になるような社会が、どこかで揺らいでいるということ。それをどうやって修正していくべきか、どうにも複雑にこんがらがっていそうなので、報道番組とかでは容易に解答は得られそうになさそうである。
しかしゴミを溜め込む人々、特にそれを個人的な問題に収斂させようとは思わないけど、そういう人もいないわけではない。実は私の同僚にもそういうのがいるという話を聞いたことがある。夫婦なのだが、特にカミさんが片付けが一切できないタイプだとかで、その家にいった者の話では、ゴミやら家財道具が集積されていて、人が通る部分がケモノ道のようになっているのだとか。
よくその話になると、その奥さんがなんとなく病気なんだろうなと、そういうことで落ち着いた。昔はゴミ問題は個人的な問題だけで片付いていたということ。でも今やそれは様々にこんがらがった複雑な世界の、たいへん複雑な社会問題であるということ。