重力ピエロ

重力ピエロ 特別版 [DVD]
これもTSUTAYAで借りてきた。伊坂幸太郎の小説の映画化である。小説はたぶん一つも読んでいない。言い訳がましく言えばちょうど私が本を読まなくなった、読めなくなった頃あたりから台頭してきた作家なんだと思う。でも私が一番本を読んでいた頃って、いつなんだろうね。
人気作家である。けっこう映画化される頻度も高い。「アヒルと鴨とコインロッカー」「死神の精度」とこの映画と三本も私は観ている。他に「ラッシュライフ」も映画化されているらしい。いずれ観てみたいとは思う。映画化された前二作についてはそこそこに面白かった印象がある。これだけ情報が氾濫している。DVDソフトも巷に溢れかえっているから、いつでも映画を好きな時に観ることができる。だから普通に消費して普通に忘れ去ることが常である。そんな映画あったっけ、そんな映画を確か観たっけかな、ああ観たことあるある、でも中身はぜ〜んぶ忘れた。みたいなことが普通だ。それからすると「アヒルと鴨」も「死神の精度」も一応覚えているから、何かしら心に残るものがあったかもしれないな。
さて本作「重力ピエロ」である。はっきりいって普通の家族ドラマである。それ以上でも以下でもない。連続放火犯だとか遺伝子解析とか、過去に起こった連続レイプ事件とか、様々なオカズがあるにはある。けれども本筋は家族ドラマである。家族の絆はいかに重要かつ深遠なものであるかという、まあ普通に陳腐な、いや普通に大切なテーマを思い出させるようなお話だ。
ドラマの展開上重要な材料となるレイプ事件とそれによって生まれた子どもの悲劇という問題。嫌なテーマである。おぞましいレイプ事件。生まれてきた子どもには罪はない。でもその事実が周知されたときの周囲の目はどうか。あるいは子どもはその事実を受け入れることができるのかどうか。
シャーリーズ・セロン出世作である「スタンドアップ」でも取り上げられていたテーマだ。ある意味、家族ドラマとしては扱いやすいテーマではある。家族はこの悲劇を受け入れることができるかどうか、みたいなことだ。難しい問題だと思う。現にそういう悲劇の傷を背負って生きている人々がこの社会には多数いるのだろうから。それに対して無神経なものいいは出来ればさけたいとは思う。しかし個人的には、個人的にはである。たぶん私なり私の周囲でそうした事案があれば、私はやっぱり受け入れしにくいだろうなと思う。例えば想像することさえ空恐ろしいことなのだが、将来的に私の娘とかにそうした悲劇があったとしたら、私はどうにもそれを許容できないだろうと思う。
最も齢50を超えた私が、今になって私の出自が母親がレイプされたことによると知らされたとしても、いささかの衝撃はあったとしても、もはや許容もなにもないだろうとは思う。母親も故人であり、当然レイプ犯も物故者であろう。それこそ何の感慨もなしである。とはいえ思春期にそうした事実を知ったら、これはもう許容うんぬんの問題ではありない。
レイプは女性に対してどうのという以前に、生きている他者への最大の冒涜的暴力行為である。しかもそれには生殖行為がついて回ることによりさらに悲劇が増大化するのである。
人間は動物とは異なり四六時中欲望という幻想を抱いている。そんなことを岸田秀の「ものぐさ精神分析」で読んだのは半世紀以上前のことになる。
ものぐさ精神分析 (中公文庫)
その欲望が暴力的な形で突出した一つの形がレイプなんだろう。それを制御するのは欲望を制限するための精度として社会ルールとして法であり、倫理であり、宗教であり。それらが形骸しつつあるのだとしたら、新たな形で人間の欲望を制御する必要もあるのだろうか。
昔読んだ本とかには例えばロボトミーとかいう話もあった。キューブリックの近未来映画「機械じかけのオレンジ」もそんなことがテーマだったか。欲望を満たすための突出した暴力行為としてレイプが頻繁に行われている社会。そこで容赦ない暴力にさらされる被害者がいる時代である。だとすればその予防事由として去勢という手段があってもいいのかもしれないなどと思うことさえある。近代社会にあってそれがどんなに非人間的なことであるかは様々に議論されてきているのだろう。でも暴力の被害にあった人々にとってはどうか。あるいはその結果悲劇的に生を授かってしまった人にとってはどうか。
レイプは犯罪とかジェンダーとかそういう部分だけで論じられるべきではなく、もっと人間の根源的な問題として論じられるべきなのかもしれない。そういうレベルの忌避すべき行為であるという認識が必要なんだと、なんとなくそんなことを思う。