『1Q84』をようやく読み終えて1984年を回想する

発売前にアマゾンに予約をいれ、発売と同時に手に入れたというのに、早三ヶ月近くもたってしまった。これまでだったらどんなに長いものでも二週間程度で読了しただろうに。実際『ねじまき鳥』だってそんな感じだった。
それがなぜにこんなに時間がかかったか。つまらなかったから。もう退屈で死にそうになりながらいやいや読み通した。ノンである。忙しかったか。そりゃジム通いして家事やって、当然仕事をしてだからと。まあそれも一つの理由だな。でも第一にはとにかく読書する時間がないのだよ。今更ながら通勤時間がないということが、どんなに人を活字から遠ざけるかっていうこと。通勤時間ない分、ゆっくりと家で、自分の部屋でくつろいで読書きめこめばいいではないかと思いきや。あにはからんや、どうにもまとまった時間を作ることができないのである。たぶんで、主婦やっている人なんかだとおんなじような悩み抱えている人多いんじゃないかなと、つい推測してしまう。
実際、なんかしらこまごまとした用事があって、集中した読書時間みたいなことができないのだよ。それを思うと昔横浜から東京へ通勤している頃はけっこう電車の中での30分、40分が集中して読書にあてられる時間だったんだなとも思う。そして一人で酒飲みながら音楽に囲まれながら読書できる古き良きジャズ喫茶。思えば20代から30代にかけて一番本が読めたのはそういう環境のせいもあったのだろうな。さらにいえば一人もので、毎日本屋を巡るのが商売だったし、湯水のように次から次へと本を買いあさることもできた。我が読書生活の黄金の日々みたいな時代だった。
思えばそんな時代に私は1984年を生きていたようにも思う。と強引に引っ張ってみる。1984年、私はたぶん28歳くらいだった。当時は務めていた書店を辞めて、たしか神田村の取次店で働いていた頃だと思う。初めてパソコンを使って仕事をし始めたのもこの頃だし、毎日本に囲まれて生活していた頃だ。当時つきあっていた女性と二人して長編小説を競い合って読み、お互いの感想を肴にして酒を飲んだりしていた。
『ディヴィッド・カパーフィールド』『アンナ・カレーニナ』『カラマーゾフの兄弟』などなど。読んでいそうで読んでいない、出来るだけ長いものを一生懸命読んだりしていた。そういえばこの年にオーウェルの『1984』を読んだ。あえて象徴的な意味をこめてわざわざ読んでみたのだが、単なる反ユートピア小説以上の意味性を読み取ることができずに、それほど面白い小説ではなかったように記憶している。ただし「1人の人間が矛盾した2つの信念を同時に持ち、同時に受け入れることができるという」ダブルシンクという概念はなんとなく真新しいものとして受け取れた。とはいえそれも、それからしばらくして読んだベイトソンの著作でダブルバインドの概念とかをききかじったおかげだろうか、それが現代人には比較的普通に陥るものであることなんかも知ったような気がした。
そんなこんなの追想を続けていると、なんともはや『1Q84』の主人公、天吾と青豆と私はほとんど同時代人であるのだなということに気がつく。彼らは物語の中では確か30歳くらいだったと思う。昭和29年組ということになるのだろうか。物語の中の1984年はあくまで1Q84年であるからリアル1984とはほとんどシンクロしていないようにも思う。もちろんリアル1984的世界には緑色のもう一つの月もなく、過激派武装集団と警察による銃撃戦もなかった。でも物語の世界で描かれる人々と同時代人であるということになんとなく親密性みたいなものが生じる部分もあるにはある。
リアル1984年はどんな年だったのだろう。ぐぐるとまあずいぶんと昔のことだったのだなと改めて思ったりもする。
http://ono-world.com/nen2/1984.html#movi
 ロサンゼルス・オリンピックの年である。総理大臣は中曽根だから、アメリカの大統領は当然レーガンである。グリコ森永事件が起き、カウント・ベイシーが死んだ年だ。ヴァン・ヘイレンの「JUMP」がヒットした年でもある。あの曲が収録されたアルバムも確か「1984」だった。
そうやって思い返してみると25年前というのは、現代史の範疇にあるのだろうけど、なんだか遠い遠い昔のことのようにも思う。そしてこの年に私が読んだ村上春樹の本はというと、本棚をひっくり返してかたっぱしから奥付を見ていくと『蛍・納屋を焼く・その他の短編』1984年7月5日発行 800円とある。大好きな短編小説「めくらやなぎと眠る女」が収録された短編集である。村上春樹はこの時代には長編小説は『羊をめぐる冒険』1作のみである。『1Q84』と似た構成をもつ長編小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が刊行されるのは翌年の1985年6月のことだった。そのようにして現代史は個人的な記憶の中で実に簡単に神話的なものに置換していく。