『1Q84年』について

1Q84 BOOK 11Q84 BOOK 2
面白かったかと聞かれれば、面白かったと答えることになる。村上小説の最高傑作かと問われれば、好き好きがあるからとしか答えようがない。それでもこういうご時勢にこれだけ長い小説がミリオン・セラーとなり、社会現象となってしまうことが、そのまま村上文学の魅力を証明しているというところだろうか。
美人スポーツ・インストラクターにして殺し屋である青豆さんと小説家の卵で予備校の数学教師である天吾くんの物語が交互に語られていく。そこにカルト的な宗教団体や巫女的性格を兼ね備えた美少女とかがからんでいく。でも謎は謎のまま、様々な伏線は回収されることもない。たぶんに『ねじまき鳥』以降の村上小説と同様にある種物語は唐突に終了するような印象もある。別に陳腐なミステリーでもないのだから、投げかけられた謎にしろ、伏線にしろ、回収される必要などない。作家の想像力によって構築された世界観を読み手の想像力によっていかようにも解釈していく、まあその手の文学的な王道的作品群なのだから。
多くの人が二つの物語が交互に語られるという構成から、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』との類似を指摘している。私自身、読んでいる最中からも同じ印象を抱いた。そして読了してすぐに思ったことはこの小説は単なる構成上の類似以上に『世界の終わり〜』と同質のものをもっているのではないかというのが感想だ。二つの小説が提示しているのは多面的世界を交互に描くことによって現実世界の多面性、重層性を切り出してみる。まあそれほど陳腐というか単純なものではないにしろ、ある種の方法論なのかもしれない。
内面的世界としての「世界の終わり」の中で分裂した自我ともいうべき自らの影と分離してしまう「僕」とややリアルな現実世界のような場所=「ハードボイルド・ワンダーランド」で生きている「私」の二つの物語。最終的に「僕」は自らの影と決別して内面世界にとどまる。様々な解釈が成り立つ作品ではあるが、最後に「僕」が影に告げる言葉は当時、現実への関与よりも内面世界を重視していた作家村上春樹ステートメントのような印象をもった。

「僕には僕の責任があるんだ」と僕は言った。「僕は自分の勝手に作りだした人々や世界をあとに放りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。君には悪いと思うよ。本当に悪いと思うし、君と別れるのはつらい。でも僕は自分がやったことの責任を果たさなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。僕は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』P617

この小説では影は僕の「ドウタ」である。と同時に「僕」は「私」の「ドウタ」である。どちらか一方が「パシヴァ」的意味合いをもち、どちらか一方が「レシヴァ」的性格を持っている。そんな風に類推を重ねてみる。
1Q84』の最終章で天吾は父を見舞った療養所の父親が寝ていたベッドのうえに空気さなぎを発見する。そしてその中身を恐る恐る覗いてみる。そこに見出すのは何か。そこに見つけるのは「美しい十歳の少女」=青豆なのである。私のそれまでの漫然とした読み方の問題もあるのだろうけど、まったく予想もしていなかったような記述だ。
そして天吾はその小さな少女の手に触れてこうつぶやく。

青豆、と天吾は言った。僕は必ず君をみつける。

でも、その前の章で青豆は自ら強制的に「1Q84」的世界に決別する。それがカルト宗教のリーダーとの約束、自らの死と引き換えに天吾の命を救う
唯一の手段だから。
1Q84」的世界の中では物語の連関性に必然性とかそういうファクターが強制される必要はないというところか。しかし天吾が空気さなぎの中に少女時代の青豆を見つけたときには、それじゃまるで天吾と青豆はまるで「僕」と「影」みたいなものではと、そんなことを単純に思ってしまった。天吾のドウタが青豆なんじゃないかと。もちろんそうじゃないのだろうとも思うけど、このへんはよくわからない。
そして最後に天吾はこう宣言して物語は終了する。

これからこの世界で生きていくのだ、と天吾は目を閉じて思った。そRがどのような成り立ちを持つ世界なのか、どのような原理のもとに動いているのか、彼にはまだわからない。そこでこれから何が起ころうとしているのか、予測もつかない。しかしそれでもいい。怯える必要はない。たとえ何が待ち受けていようと、彼はこの月の二つある世界を生き延び、歩むべき道をみいだしていくだろう。この温もりを忘れさえしなければ、この心を失いさえしなければ。
彼は長いあいだそのまま目をつぶっていた。やがて目を開き、窓の外にある初秋の秋の暗闇を見つめた。海はもう見えなくなっていた。
青豆を見つけよう、と天吾はあらためて心を定めた。何があろうと、そこがどのような世界であろうと、彼女がたとえ誰であろうと。

ある種のステータスがこめられているのかもしれない。ここ20年以上にわたって村上春樹が問うてきた現実世界へのコミットの模索がたぶん継続しているのだろう推測できるような言葉だと感じた。かって『ねじまき鳥』で他者を理解することの難しさと、それでもそのための不断の努力を続けていくべきこと、小さな世界の声を聞き取ろうとする努力を語った、と私には思えた。
ゆがんだ現実世界の象徴としての1Q84的世界。そこで生き抜きために村上が見出したのは結局のところ小さな生の温もりなのである。その中で彼が見つけようとするのは自分自身なのか、自分自身を含めた世界の有り様なのか。なんていっていいのだろう、かってある種の自閉性の中で内面世界を生きていこうと考えた作家は、世界と連関した自分自身をもう一度見出していくべきことの必要性を、そして身近な生の温もりを大切にしていくことの意義を小さな声で表出し始めたということなんだろうか。
我々が空気さなぎの中に見出すのは、いつも自分自身の影=ドウタなのかな?