フェルメール展

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遅い昼食をとってからまた上野公園に向かう。さてどうするかなと思いつつも、やっぱりフェルメールかと思い東京都美術館に行くことにする。時間はすでに3時を回っている。いくらなんでもこの時間からなら混雑もいい加減緩和されているだろうと思った。
TBS「フェルメール展〜光の天才画家とデルフトの巨匠たち〜」
フェルメールの絵画はほとんど見たことがない。画集とかでもほとんど目にしていない。どこの人かも知らずじまいで、それこそ例のシャープアクオスのCMで吉永小百合フェルメールの絵画を鑑賞するやつ、あれで知ったのではないかと思うくらいだ。簡単に学習すると17世紀オランダでレンブラントとともに活躍した画家であると、まあそういうことらしい。
ヨハネス・フェルメール - Wikipedia
レンブラントは知っているけどそれに匹敵するほどの画家だったとは本当知らなかったな。この展覧会でもフェルメールを「光の天才画家」と形容している。実際確かに陰影を明確にした絵画はその時代(17世紀)としてはきわめて斬新なスタイルだったのだろうとは思う。なんたって徳川時代が始まった頃のことなんだから。
しかしレンブラントに比べるとなんていうかチープというか軽い感じがする。そのへんがこれまでの美術史の中でも今ひとつきちんと取り上げてもらってこなかった理由なのかななどと勝手に思ってみたりもする。自分が知らないのをそういう理由で合理化しようというわけである。でもどう考えてもレンブラントは一枚看板だけど、フェルメールはその他大勢的な扱いだったんではとも思うわけだ。そのへんが昨今大きく取り上げられるようになった理由はなんなのかなとも思う。
フェルメールの作品は30数点しか現代には存在しないのだという。そういう希少性とかなのかなとも思う。さらにはこの人の陰影の表現の仕方、光があたった部分の鮮明な明るさと当たらない部分の暗さ、その明確なコントラストとかも評価される部分なのだろうか。それでいてレンブラントのように重々しさがない。
フェルメールの作品 - Wikipedia
通して見ると基本的には写実派の人ということでくくられるのだろう。ウィキペディアの中でも途中から風俗画家に転向したという記述もある。まあそんな感じだ。よくできた絵葉書みたいな絵だと思う。たぶんこの時代のオランダにあっては、画家は写真家だったのだろうなと思う。人物や風景をそっくりそのままキャンバスに描き出す。リアリズム=写実ということなんだろう、まあある種の歴史的限界として画家とは、絵画とはそういうものだったのだろうということだ。デフォルメなし、描き手の思想だの情念だのといったものとも無縁。いかにしてそのままに描くかということだ。そのためには一にも二にも遠近法、そして光の陰影をどう描き出すかということだったということなんだろう。
オランダというと当時日本が唯一交易していた国である。17世紀オランダ絵画は風景画や生活画が中心だったという話である。
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実際今回の展覧会で展示されたフェルメールにしろ同時代の画家達の作品もそうしたものばかりだ。これらの作品は長崎出島を通じて日本にも伝わってきたのかどうか知りたくもなる。日本に西洋絵画が紹介されたのは18世紀当たりだったろうか。平賀源内が紹介しその弟子である小田野直武や司馬江漢等がパイオニアを担ったのが蘭画といわれている。このへんのことを私はみなもと太郎の傑作コミック「風雲児たち」で知った。このコミックは日本近世、近代史の通史としては比類のないくらいの傑作だと実は思っている。一度きちんとこの本のことを書いてみたいなとも思っている。
風雲児たち (8) (SPコミックス)
そこで知った小田野直武の生地角館を訪れて平福美術館にも行ってみたことを思い出す。「風雲児たち」を読まなければ、蘭画だの小田野直武だのを知る由もなかった。その彼等に影響を与えた西洋絵画が、オランダの画家たちのものだった可能性が極めて高いのではないかと私は思っている。そう思うと今回展示されたフェルメールや同時代の画家たちの絵ももっと興味深く見ることができたのかなとも思わないわけでもない。
でもそういう予備知識がなくて見るとやっぱりこの手の絵画はみな風俗画であり、絵葉書、ポストカードみたいな感じの、ようは当時の写真だったんだろうなと思うのである。
さてとこの東京都美術館なのだが、ここも入場するにあたってのバリアが大きい。入口が地階にあり、階段降りてエントランスへという設計になっている。どうしてこういう作りにするのかなとも思う。まあ設計も芸術だから様々なる意匠っていうことなんだろうけど、車椅子押していく身としてはもう入るだけでストレスである。
さらに3時過ぎとはいえさすがにフェルメールである。かなり混んでいる。車椅子だから前列でないと妻は絵画を見ることができない。でもなかなか進まない。絵画のまん前で長々と鑑賞している人が必ずどの絵の前にも数人いる。さらにだ、最近のミュージアムではポータブル音声再生機を貸与して音声でガイダンスを行っている。絵の解説を受けながらじっくり絵画鑑賞するのはいいけど、目は絵画に釘付け、耳は音声だろう、周囲がまったく目にも耳にも入ってこない。KYどころの騒ぎじゃない。混んでいる展覧会では一所に立ち止まらない。ゆっくりとでも移動しながら鑑賞するのが基本だと思うのだが、もう彼等には周囲のことはまったく感知されていない。俄か鑑賞家の皆さんはみんな絵に対峙していらっしゃるのだ。
自分一人ならそういう絵画の真ん前に居座る人々の肩越しでも絵を眺められる。適当にやり過ごせる。でも妻は一番前に行かなくては絵を見ることができないのだ。
正直言って本当にストレスがたまった。もう美術館に行きたくないと思ったほどだ。さらにだこれらの鑑賞家の人々は絵画だけでなく絵画の手前にある解説文を長々と読みふける。彼等の後ろで待っていないと絵の前にいけないのである。美術館に来てから勉強するなよと小声でぶつぶつ言いたくなってしまった。
とにかくだ、たった一人で絵を見に来ているのではないのだ。絵の前で5分近くも陣取るのはやめれと言いたいな。それと絵の前で会話しているカップル、君たちそれもルール違反だと思う。それなりに混んでいる美術館ではゆっくりと鑑賞しつつも移動しなくてはいけない。立ち止まっても数十秒が限度だと思うぞ。それからあの音声ガイダンス、あれも周囲の状況を把握できなくなるからやめたほうがいい。美術館での基本的なルールが明確にされていないところでああいうのを導入するのは問題だと思うな。
そりゃ人もまばらな美術館だったらいくらでも美術作品の前に立ち尽くし、何時間をかけて鑑賞してもいい。でも混んでいるところでそれをやってはあかんと思うのだが、どうだろう。まあこういう場所に来ると結局人は自分のことしか考えていないのだなとまあ当たり前のことを思い知る。誰も車椅子の人間のことなんて考えちゃいないということ。ミュージアムとは文化的なところだけど、そこでは人間本来のエゴイズムがある意味先鋭化されるわけだ。文化と福祉は別ものなんだろうな。
まあしょうがない、そういう世の中だし。あえて言っちゃえば身障者ということでこの美術館に入るのも実は無料なのである。向こうはきちんとお金を払っているわけなので、そういう意味では非はこちらにありということなんだろう。きちんと代金を払っているものがきちんとそれにふさわしい対価を得られて当然ということ。
とりあえず混みそうなミュージアムに行くのはもうやめようと思った。ハンディを背負ったものは肩身が狭くなるような構造物のなかで肩身が狭くなるような見方しか出来ないのだからな。
でもそういうのを差し引いてもフェルメール、そんなにすごい画家とは思えなかったな。フェルメール展といいながら例の青ターバンの娘とかもなかったし、などと結局ぶつぶつ、ぶつぶつ。