「靖国YASUKUNI」を観る

靖国 YASUKUNI [DVD]
TUTAYAに新作で出ていたので借りてきました。昨日、11時過ぎから観はじめたのだが、寝不足でさらにしこたま飲んでいたこともあり、途中で睡魔に負けてしまい断念。本日リターンマッチでようやく観た。途中ちょっとだれて睡魔と闘いました。
感想、まあ普通のドキュメンタリーです。真面目に撮られています。だから真面目に観るべき映画です。真摯にスクリーン(テレビだけど)を見つめなくてはいけない、襟を正して観るべき映画です。
この映画の公開にあたっての例の事件、保守系国会議員や右翼の抗議やらで劇場が上映中止相次いだというやつ、あれを思い出しつつ観たのだが、そんなに内容的にひどい、反日的映画だったとは思わなかった。ただし2006年8月15日の靖国神社の様子を定点観測のように映し出し、そこで行われる様々なパフォーマンスについては、確かに滑稽な描写が多々あり、靖国信奉者たちの言うような、靖国への真摯な参拝をちゃかすような描き方というようにもとれる。あれを観たら靖国を信奉するのは、戦前へのノスタルジックな回帰ともいえそうな、耄碌した老人たちの反時代的あるいは時代錯誤みたいな態様の羅列のようにも思える。靖国靖国を信奉する人々への冒涜みたいに思われてもいたし方ない描写かなとも思う。
でも8月15日の靖国がこんなにも面白いパフォーマンス劇場になっていたとは知らなかった。右翼の方々の時代がかった参拝パフォーマンス、軍人会(多分その手の同窓会めいた組織なのではと単なる想像)の老人たちの軍服姿による参拝。この老人方々、先の大戦に従軍されたとなると多分80代の方々ばかりでしょう、彼等がなぜ毎年軍服引っ張り出して、終戦(敗戦)記念日に参拝するのか。英霊と呼ばれる神社に合祀された方々への追悼のためになぜ軍服引っ張りださなくてはならないのか、よく理解できません。実はなんかもっと違う目的とか、単なる目立ちたがり屋さんなのか。なんにしろ困ったお爺さんたちとしか思えません。
8月15日の靖国がこんな面白いことになっていると知っていたら、一回くらい見に行っても良かったかなと正直思う。映画の中でも報道とは別にいかにもパフォーマンスを楽しむためにカメラを向ける一般ピープルがかなり映っていた。このへんは秋葉原でメイドやアニメキャラに扮した女の子にカメラを向ける輩と同質のものを感じました。そうか靖国神社秋葉原と同じなんだ。どっちも○○○の聖地なわけで。○○○にはお好きな言葉をどうぞ。
こうなると来年当たりは、どこぞのバカがナイフ片手にトラックで境内につっこんだりとかあるのではないかと本気で心配してしまう。
さて映画に話を戻す。この映画は中国人監督による作品なのだが、あからさまな反日プロバガンダをこれでもか、これでもかと主張するようなタイプのものではない。上映中止が相次いだときも、出来るだけ客観的な描写を心がけ、そのうえで靖国について人々の関心を高め、靖国のことを考える契機になればというのが制作者のスタンスみたいにいわれたことがあったようにも思う。でも、この映画けっして「靖国」に対して中立、トランスな描き方がされているわけではない。制作サイドが明らかに反「靖国」という立場にあることは明確だと思う。
靖国」を賛美・信奉する側を面白おかしく描き、批判する側をけっこうストレートに描いているなど、公平とはお世辞にも思えない描き方、編集がなされているなとは思った。ただしそれはアジア人が日本の軍国主義やその象徴的装置としてたぶんあるだろう靖国神社に対して普通に抱くであろうスタンスとしての意味でだ。だってそうでしょう、韓国人であれ、中国人であれ、タイ人であれ、フィリッピン人であれ、インド人であれ、マレーシア人であれ、インドネシア人であれ、ベトナム人であれ、カンボジア人であれ、バングラデシュ人であれ、先の戦争についての知識をある程度もった人々に靖国神社とその背景について説明すれば、とりあえず否定的な意見がでるのが普通でしょう。そういう意味ではこの映画の制作サイドはけっこう控えめ、控えめにその批判的意図を押し殺し、なんとか客観性を打ち出そうと努力しているようにも思う。まあ文化庁助成金もらったりもしているのだから、それこそ意図的にこしらえた中立的表現ということでしょう。はっきりいって失敗です。
さらにいえばドキュメンタリーに公平性など実はありえないという部分もあります。どんな事実であれそれを切り取る、その方法論には撮り手の価値判断が働いているはずです。客観的な描写により観る側に素材を提供し、価値判断は観る側にゆだねますとはよく言われることですが、はっきりいって嘘です。それはありえません。
だとしたらもっと制作サイドの価値観を最初にきっちり表明し、それによって事実を対象を切り取る。旗色鮮明にすることで、対象に対する批判を明確にする。そのことによって事実は撮る側にとって都合の良い真実となり、批判される側にとっては不都合な真実となるのです。
そういう意味で私が評価するのはマイケル・ムーアの一連のドキュメンタリーである。ムーアの作品にはムーアの確固とした思想、価値判断、対象への批判意識が明確に打ち出されています。それでいてドキュメンタリーでありながら、観る側をだれさせないテンポある演出、表現が満ち満ちていて、一級の娯楽作品になっています。楽しんで観ながら、ムーアが提起する問題点について考える契機をいろいろ与えてくれる。出来ればムーアの手法で靖国を扱ってほしかったな。ただしそんなことをしたら上映中止どころではすまなかっただろうとは容易に想像できますけど。
あと幾つか気がついたこと。映画の中で靖国参拝式典に乱入して「靖国反対」を声高に叫ぶ若者が右翼に袋叩きにあって流血し、最後はパトカーで連行されていくシーンがあった。その時一人のおっさんがずっとその若者に向かって「お前中国人だろう、中国へ帰れ」を連発していた。こういうの見せられると、最近の中国での反日デモとかを簡単に批判、否定できないなとは思った。発想、思考形態はまったく一緒、反日=反シナと簡単に隣国を否定する形でのアイデンティティの構築、そういう安易な民族主義なんだろうけど、とにかくそういうのは不毛としかいいようがない。そういうものに簡単にのっていくことによって先の戦争のような結末があったわけだから。
これからの日中関係を考えるときにも、国が安易に隣国への反感を自国民に植え付け、それによって民意をまとめようなんて思っていると、結局なんらかの形で歴史は繰り返されることになる。日中関係の対立、後ろ盾にアメリカがいつまでもいると思っていると、なんとなく墓穴掘りそうな気もするな。こと外交に関してはアメリカも中国もきわめて現実主義的かつプラグマティックに行動するだろうから。
靖国YUSUKUNI」では靖国神社御神体を刀=日本刀だと定義づけている。そのうえで靖国神社内にある「靖国刀」と呼ばれる日本刀の刀工にスポットをあてている。途中からその「靖国刀」がいかにして日本軍隊の武器、戦いの象徴的存在になっていくかを、様々な当時のフィルムや画像によって描こうとしている。実はこの映画の本質はここにあるんじゃないかというのが私の感想だ。靖国御神体である「日本刀」、靖国神社で作られる「靖国刀」、それが日本軍の象徴的装置となっている。それは戦死者え=英霊を祭る平和的装置としての靖国神社が、その本質において旧対戦時の日本軍隊と同質、あるいはその思想的装置として存在してきたこと、また今も実はそのようにして存在していることを描こうとしているようにも思えた。
靖国YASUKUNI」は明らかに確信犯的に「反靖国」映画であるということ。たぶんにそれが総てだ。ただしその表現方法がフラットを装っているため、反靖国派からすれば、かなり歯がゆい表現、そういう映画だと捉えられるだろう。靖国信奉者からは、ある部分では意外とフラットな映画ではという声も出ているかもしれないし、単純に中国人監督が「靖国」を題材にしているということだけでの非難とかも受けているかもしれない。でも右側の人々は安心してこの映画を批判していいと思う。これは確実に「反靖国」だから。
さてと毎年8月15日に参拝する人は、15万近くにものぼるのだとか。例の2006年の小泉参拝の時はなんと20万とも言われている。とはいえ神社の参拝者数の水増しはけっこう大掛かりで10倍くらい軽くサバ読むという話もある。それでも数万人の人々が参拝しているわけである。その多くが例のパフォーマンス屋かといったら、けっしてそういうことはないわけでしょう。逆に数万の人々がみんなパフォーマンス屋さんだったりしたら、それはそれで凄すぎるとも思うけど。物見遊山な方々も相当数いらっしゃるでしょうけど、まあ普通の一般ピープルが普通に慰霊のためのとかで参拝しているのでしょう。靖国神社がそういう一般ピープルが何気に先の戦争の戦死者への追悼とかで集ってしまう場所だということが一つの問題というか靖国の存在意義の深さとでもいうべきことなんだとも思う。そしてとりあえず集ってしまう数万の人々。彼等の草の根民族主義とかそういう部分をきちんと見つめないと、これからアジアと対峙するときのややこしさから抜け出せないようにも思う。なんとも歯切れの悪い表現ではあるけど。
ただね、これだけはいえる。年月は経過していく。忘却は人の常である。先の戦争に代表されたような民族主義は年月を経過するなかでさほど再生産されてはいなそうだ。あの8月15日のパフォーマンスだって、あと10年、20年すれば皆無になってしまうでしょう。あのお爺さんたちがいくら頑張っても20年後に同じパフォーマンスはあり得ないわけで。「靖国」もいずれは風化してしまうのではないかとそんな気がします。たぶん今現在でも40代より下の世代にとっては、「靖国、なにそれ」っていう感じでしょう。あと20年もすれば英霊という概念すら風化してしまうでしょう。だいたいにおいて今我々が戊辰戦争だの日清、日露戦争での戦死者を慰霊するなんて気持ちありますか。いずれは先の戦争もそういうようなものになっていくのでしょう。