さらに竹内まりやについて

いろいろ思いいれがある竹内まりやだけど、実は同時代的にずっと聴いてきたわけだはないない。RAC時代のものは断続して聴いていたけれど、たぶんどこかでぷっつり聴かなくなった。彼女が結婚した頃あたりからか。だから巷では名曲、定番といわれる「駅」とかもあんまり良く知らなかった。
先日行きつけの飲み屋のマスターと竹内まりや談義に花を咲かせたところ、私より2、3こ上のジャズ・ピアニストでもあるマスターは盛んに「駅」は名曲だと力説していた。私はこういうスローバラードでヨーロッパ的な感覚、坂本龍一あたりがアレンジしてそうな(実際は達郎なんだけど)がちょっと苦手だったりもするので、プロのミュージシャンでもこういう受け止め方するんだと意外な感じで聞いていた。まあ美しいメロディ・ラインの名曲だとは思うけど。
で、竹内まりやを聴いていない時期ってなにを聴いていたのか、女性ヴォーカルだと、一も二もなくたぶんにユーミン聴いていたんじゃないかな。なんとなくだけど、1980年代から90年代には女性ヴォーカルというと、確実にユーミン派が主流だったように思う。それに対して竹内まりやを聴いている層はというと、なんというかあまり音楽に対する志向を主張しない人たちだったんじゃないかと、そんなことを思う。
イメージ的にしろ音楽性、歌詞、いろいろな意味でユーミンのほうが竹内まりやよりもソリッドだったようにも思う。ちょっと前風な言い回しでいえば、エッジが効いていたみたいな感じかな。でも今回通して竹内まりやの当時の楽曲を聴いていると、皮相的には不倫っぽい楽曲オンパレードみたいな感じだけど、実はけっこうエッジが効いているというか、なかなかなものなのであると改めて思うところもある。どこがなかなかなのかというと、ちょっと言葉が出ないのだけど。
しかし女性ヴォーカル巡る時代的な潮流みたいなことでいえば、メイン・ストリームのユーミン、やや穏健派の竹内まりやてな感じかな。さらにいえばまったく対極的な方向でのメイン・ストリームが存在がしていて、そこには中島みゆきがデーンと鎮座ましましていたりして。中島みゆきも嫌いじゃないけど、あれはやっぱり演歌だと思う。
話脱線したけど、結局穏健な竹内まりやを敬遠するわけではないけど、あまり積極的に聴かないままそのようにして20年を過ごしてきてしまったわけだ。でもどこかで聴いていた、あるいは普通に流れてくる彼女の曲を享受してきたんだろうな。ベスト盤聴いていても、ある意味みんな知っている曲ばかりだから。そして私自身も歳とっていろいろな意味で丸くなった(体型を含めて)。ソリッドなとんがったものもまだまだ嫌いじゃないけど、今や竹内まりやの穏健派路線がしみじみ胸にしみるのである。
もう一度、山下達郎の言葉を思い返す。
「ポップ・カルチャーの本質は、つまるところ『生きることの肯定』だ」ということを。
そのようにして生きることを肯定し、生を前向きに謳歌していこうという姿勢。かっては斜にかまえ、そういうものに否定的だったのだけど、今はストレートにそういうポップ・ミュージックを普通に受け入れられる。月並みな歌詞がしみじみ心にしみてきて、思わず口ずさんだりもする。

誰もがちょっとずつ年をとってゆくから
何でもない一日がじつはすごく大切さ
今日が誕生日じゃなくっても 記念日でなくっても
給料日じゃなくってもね
SO 毎日がspecial 毎日がspecial
special day for everyone
毎日がspecial 毎日がspecial
Everyday is a special day