赤塚不二夫が死んだ

赤塚不二夫さん死去 「おそ松くん」「天才バカボン」2008年8月2日21時48分
「シェー!」「これでいいのだ!」「ニャロメ!」など数々の流行語を生み、「おそ松くん」「天才バカボン」などで笑いのブームを巻き起こしたマンガ家の赤塚不二夫(あかつか・ふじお、本名赤塚藤雄)さんが2日、肺炎で死去した。72歳だった。葬儀の日取りは未定。喪主は長女りえ子さん。
中国東北部(旧満州)生まれ。新潟県内の中学を卒業後に上京、化学薬品工場の工員をしながらマンガを描き、56年に貸本マンガ「嵐をこえて」でデビュー。石ノ森章太郎さんら多くのマンガ家が住んだアパート「トキワ荘」で本格的な創作活動を始めた。
58年、初の月刊誌連載となった「ナマちゃん」を「漫画王」に発表。62年に六つ子を主人公にしたドタバタギャグ「おそ松くん」を「週刊少年サンデー」に、変身願望をくすぐる少女マンガ「ひみつのアッコちゃん」を「りぼん」に連載して人気マンガ家に躍り出た。
67年、前衛的笑いの集大成「天才バカボン」と“反体制ネコ”ニャロメが登場する「もーれつア太郎」が連載開始。多くの作品がテレビアニメ化され、一大ブームを巻き起こした。02年に脳内出血で倒れて以降は、東京都内の病院で、意識が戻らないまま闘病生活を続けていた。
65年に「おそ松くん」で小学館漫画賞、97年には日本漫画家協会文部大臣賞を受賞した。
朝日新聞朝刊

久々にPCの前に座って夜通しYouTube三昧して明け方朝刊を手にしてその訃報に触れた。三面記事でも社会欄でもない一面である。赤塚不二夫死去の大きな活字、その横にはバカボンのパパの絵と「これでいいのだ」というネーム。その下にはニャロメの絵もある。朝日の一面にデカデカとバカボンのパパとニャロメが載る日が訪れてしまったのだ。
いずれこういう日が来ることはわかっていた。わかっていたけれど寂しい。本当に寂しいね。もともとアル中で成人病オンパレードみたいな人でもあったわけだし、若い時に相当にハチャメチャやっていた人でもある。ガンで手術までした人でもある。02年に脳出血で倒れてからは意識はほとんど、いやまったくない、所謂植物人間状態だったという。6年間意識のないまま病床にあったわけだ。
そういう文脈のなかでの72歳の死去だ。けっして短命だったわけではない。でもこの人にはもっと長生きしてもらいたかった。あり得ないことだったのかもしれないけれど、長い眠りの後で目を覚まし、いつもの突拍子も無いようなギャグを飛ばして欲しかった。
日本の少年漫画は、アメコミや風刺画の域をとうに脱して、独自の文化を築き上げてきたのだと思う。それはある部分世界に誇ることができる、新しい総合メディアでもあった。その日本漫画を作り上げてきたのは、まさしく昭和の巨匠たちだ。手塚治虫石森章太郎、そして赤塚不二夫。赤塚の以前と以後ではギャグ漫画の有り様は一変したのではないかと、そんな風にさえ思えてしまう。ちょうど手塚治虫以前と以後ではストーリー漫画のそれが一変してしまったのと同じようにだ。
私にとっても赤塚不二夫は別格の存在だった。「おそ松くん」、「もーれつア太郎」、「天才バカボン」とほぼ同時代的に読んでいた。小学生時代には「おそ松くん」の単行本を貸し本屋で借りたり、少ない小遣いで買ったりもした。ある時は人情モノであり、ある時はキートンマルクス兄弟のようなドタバタ、そしてまたある時はカオスのごとく、あるいはシュールなギャグの連続。それらが楽しくて楽しくてしかたがなかった。
昭和が一つずつ一つずつ消えていく。寂しい、寂しい、寂しいね。何10冊も持っていた赤塚不二夫の単行本は今ただの1冊もなくなってしまった。たった1冊1975年に今は無き、話の特集から刊行された和田誠責任編集の分厚い1冊の本『赤塚不二夫1000ページ』が棚の上部に残っていた。赤塚不二夫のエッセンスが詰まった素晴らしい本だ。今日はこの本を括りながら、失われた昭和への惜別の思いを胸に酒飲むことになるのだろう。