グレート草津死去

元プロレスラー、グレート草津さん死去
グレート草津さん(ぐれーと・くさつ=元プロレスラー、本名草津正武〈くさつ・まさたけ〉)21日、食道がんで死去、66歳。通夜は23日午後7時、葬儀は24日午前11時から静岡県長泉町下土狩71の11のセレモニーホール三島平安会館で。喪主は妻智子さん。
八幡製鉄(現・新日)ではラグビー選手として活躍し、日本代表にも選ばれた。その後、プロレスに転身。ルー・テーズらと戦うなど第一線で活躍した。
(アサヒコム)

昨日の朝日の夕刊、社会面の片隅にぽつんと載っていたね。国際プロレスの旗揚げで第一戦でエースとして売り出されるはずだったのに、ルー・テーズのバックドロップくらって失神しちゃったんだよな。なぜかあの試合をテレビで観ているし、けっこう覚えている。
国際プロレスは初期の頃けっこう毎週かかさず観ていたような記憶がある。旗揚げの時は、テーズの他カンガルーズとか出ていたな。海外の窓口=ブッカーはヒロ・マツダだった。本とかで読んだけど、すぐにグレート東郷が入ってきてブッカーに就任したのでマツダは嫌気がさして辞めちゃったんだとか。
草津のグレートはたぶんグレート東郷からとったんだろうな。件のテーズ戦のセコンドには東郷がついていた。ずいぶん後になってから、失神は事実ではなく東郷から倒れていろと指示があったのでそうしていたと草津は語っているそうな。
この頃の国際プロレスは、サンダー杉山ストロング小林ラッシャー木村とかが交代でエースを務めていたっけ。その後にはマイティ井上とかもエースになったけど、草津はほとんどエースになることなかったそうな。やっぱり旗揚げでバックドロップ失神がついて回ったのかもしれないな。その他外国人レスラーで初めてビル・ロビンソンがエースを短期間務めたこともあった。
国際プロレスアメリカンプロレスとの繋がりは弱く、外国人レスラーをヨーロッパから供給していた時期があった。その頃にビル・ロビンソンの他、若き日のアンドレ・ザ・ジャイアントことモンスター・ロシモフとかもリングにあがった。その後、AWAと提携していた時期もあり、国際経由でアンドレ・ザ・ジャイアントAWAマットにあがったのだとか。
その頃、馬場、猪木の日本プロレスはNWAと提携していたから、AWA系のレスラーが日本にやってくることはほとんどなかった。だから国際プロレスAWAと提携した時はけっこうドキドキものだった。まだ見ぬ強豪レスラーが続々やってきたからだ。とりわけAWAのエース兼プロモーターだったバーン・ガニアの来日はワクワクしたものだ。禿頭だが精悍な容貌、スタイルのガニアは見るからに強そうだった。提携先のドンだから別格待遇だったのだろう、国際のエース格の小林、杉山、井上、草津等がガニアの前にコロコロと負けた。キレのあるドロップ・キックを喰らい、止めはスリーパー・フォールドだった。単なる締め技のスリーパーで国際のエース級がみんな失神もしくはギブ・アップするのにびっくりしたものだった。
当時、スリーパーを必殺技にしていたのは、ガニアとマーク・ルーインくらいだったか。後にUWFで前田とかがスリーパーを決め技にしたり、猪木がチョーク・スリーパーで相手を失神に追い込むとか、この技が単なる締め技でないことがわかるのだが、70年代でこの技が決め技になるのは驚きだった。
草津といえばラグビー出身だからタックル、他にはドロップ・キックや決め技の4の字固めなんかが思い出される。どちらかといえば、強いというイメージよりもロビンソンやガニアにやられるという印象のほうが強い。なんとなくひ弱な印象だ。それというのものやっぱり一番最初のバックドロップ=失神のイメージが子ども心に焼き付いていたからなんだろうな。
たいしたレスラーでもないのに、こうやって死亡記事を見つけるとひとくさり語りたくもなる。淋しいね。また一つ昭和が遠くなっていくということなんだな。