秋葉原事件〜首相問責決議〜東北地震

あのおぞましい事件から一週間が経過した。テレビのニュースショーやワイドショーの過剰な報道から、犯人の性格とか背景とかはそこそこ明らかになりつつある。しかし犯人の人柄だの、育った環境とかがわかるにつれて、あのような大それた犯行におよんだ男が、あるいは秋葉原歩行者天国が一瞬にして地獄絵図と化したほどの大事件が、なんとなく、なんとなくだが、どんどんと矮小化されていくような、なにかそんなイメージだ。
そうこうするうちに昨日は東北地方で大地震が起きた。これによりテレビの報道はあっという間に地震報道一辺倒になってしまった。秋葉原の事件はたった一週間で形骸化されてしまったような印象。そう、マスコミは、あるいは現代社会は、ニュースを過剰に消費していく。常に新しいニュース、事件が消費されていく。重要な事件、報道も、新しいそれにとって変わられるということだ。
秋葉原事件と東北地震の間の週となった先週には、11日に参院で現総理の問責決議案も可決されたのだが、残念ながら秋葉原事件の特異性、衝撃により確実にこれはぶっ飛んでしまった感さえある。一国の総理大臣が下院(参院)で内閣不信任をつきつけられるという憲政上初めての政治的事件であったはずなのにね。
内閣不信任は衆院にのみ認められたものであり、参院の問責決議は法的にはなんの拘束もない。与党は対抗上衆院で内閣信任の決議なんていうのを翌日に行っている。しかしだよ、今の衆院与党の圧倒的多数が形成されたのが、どういう経緯だったかを思い出してみたい。確か郵政民営化法案が参院で否決されたことに対して、時の総理小泉純一郎が、参院で否決に対して、衆院を解散して望んだ総選挙によってなんだということだ。
政治的手法としてはありえるかもしれない力技だったかもしれないけど、およそ憲政の常道からはありえないことをやってえた過半数なわけだ。しかもその時の民意は、小泉=郵政民営化というたった一つだけの政策に対する信任だったわけだ。でもその後過半数を制した小泉政権が行ったことは、今大変話題になっている後期高齢者医療制度なんぞを駆け足で決めていったことなわけだ。
たった一つの政策=郵政民営化だけで、しかも参院での否決に対して行った衆院選で得た多数派与党が、今現在民意の信任を得ているのかどうか。そういう意味では実は奥が深い問題であるはずの首相問責決議案が、軽くぶっとんでしまったのだから、福田総理以下自民党公明党の皆さんは、実は秋葉原の例の容疑者君に大いに感謝しなくてはならないのではないか、などと不謹慎にも思ってしまうわけだ。
そしてその通り魔事件である。なによりも被害にあった方々やそのご家族のことを思うと、本当に胸が痛む。多く様々なことが語られているから、その引用になってしまうかもしれないけど、実際あの凶行が数分、数十秒早かったり、遅かったりするだけで被害に遭われた方は別の誰かだったのだ。たまたまあの時刻にあの場所に居合わせたというだけで、惨劇の被害者となってしまう。
息子さんや娘さんを亡くされた親御さんの無念を思うと自分も人の親である、たまらない思いにかられてしまう。もし自分の娘がそういうことになったら・・・。たぶん私などはおよそ普通な精神状態ではいられないだろうと思う。いやそんなことを想像することさえ耐えられない。その悲劇が現実となってしまった方々に対して、月並みな言葉、月並みな同情心、なにもかもが空しいだけなのかもしれない。
耐えがたき悲しみを逆撫でするかのような犯行の動機「誰でもよかった」。究極の不条理とさえいれるかもしれない。
この事件について脈略なく思ったことをある種の不謹慎さを恐れずに書き出してみる。
・事件はわずかトラックで交差点に進入してから犯人が逮捕されるまでわずか数分間のことだった報道されている。その数分で7人の死者が出ている。あまりの手際の良さに犯人はプロかと一瞬思ったほどだ。サバイバルナイフであっという間に数人を刺殺するという凶行。犯人は殺人のプロ、そう自衛隊関係者あたりかと当初思ったほどだ。
・それがすぐに逮捕される際の映像に直面した。敢然と警察官と対峙するでもなく、へなへなと崩れるようにして警官に取り押さえられる犯人。なんだこいつは、ちっともプロじゃない。かってアメリカでハイスクールに襲撃して乱射のあげく自殺したコロンバインの高校生たち。ムーアの映画の中で、何回かカメラに映った少年犯は、ハードにしてドライで無機質な感じがした。それに対して今回の秋葉原の犯人はなんとひ弱でウェットなことか。あの逮捕された時の犯人の姿と、彼がしでかした凶行とのギャップ。それがいつまでたっても埋まらないでいる。
・日中の平和な歩行者天国での凶行。孤独な若者が大量殺人を夢想する。その孤独が深ければ深いほど、より深刻にして真剣に夢想する。そういうことは実はあるかもしれないとも思う。そう思うだけ、空想だけであれば。
かって孤独なテロリストが原爆を個人で製造して国家に様々な要求をつきつけるという奇抜なストーリイの快作映画があったっけ。長谷川和彦監督作品「太陽を盗んだ男」だ。その中でテロリストは原爆をボストンバッグの中に入れて渋谷の街をとぼとぼと歩いていく。平和な歩行者天国、幸福そうな人々の間を、孤独な男はただただ疲れきって歩いていく。そして爆発のイメージ。
無差別殺人への衝動、それは疎外された人間が陥りがちな破滅衝動の一つなのかもしれない。とはいえ実際にそれを実行に移すことはありえない。
・今回の犯人は、普通想像、夢想したとしても実際に行うことはあり得ないことを容易に行動に移してしまったということ、その一点につきるのかもしれない。
・大量殺傷のためには車で歩行者天国につっこむのが効果的だ。そのとおりである。しかもその車が大型車、そうトラックであればより効果的に殺傷という結果が得られる。そのとおりだ。大量殺傷を目的とした場合の手段としてはきわめて効率的である。でもあくまで考えるだけである。
・犯人には空想と現実との間の大きな境界、そこにあるべき社会的人間としての違法行為に対する規制意識、あるいはもっと根源的な人間性の問題、モラルや倫理観、単純に人は人を傷つけてはいけないという自明な事柄が簡単に捨象されてしまっている。だから空想がそのまま現実と繋がってしまう。
・しかしなんという手際の良さなのだろう。素人があんなにも簡単にトラックで人をはね飛ばして殺傷する。トラックを降りてから次々と人を刺していく。そんなことが可能なのだろうか。逮捕される時のひ弱さとのギャップがいつまでも疑問点として残ってしまう。
・その後の報道からは犯人のある種の短絡的な思考回路、一方的な被害者意識なんかが明らかになりつつある。それがあまりにも稚拙なため、なんていうのだろう、被害にあった方々の無念さがよりいっそう浮き彫りになるようでつらい。
・「女にもてない、それだけで人格崩壊」だの容貌に対するコンプレックスだの。なんだこいつが掲示板に書き連ねているのは、まるで中学生かなにかの虚言みたいなものではないか。25にもなってこういうレベルの意識のまま、凶行につっぱしていく。なにか分析したりする意味がないほどの稚拙さ。
・もともと青森県下でも有数の進学校に進んだにも関わらず、自動車が好きだという理由だけで岐阜の自動車整備士向けの短大に進む。普通なら工学部系の大学に進んでエンジニアとかそういう方向を考えたりしないか。理由はいろいろあるのかもしれないけれど、この男はプロセスを無視してきわめて短絡化していく思考方法があるようにしか思えない。
・犯人が非正規派遣社員であり、ワーキングプアの一人だったことから、現代の格差社会がこの無意味な化け物を作り出したんだというような形で世論が形成されていくのかもしれないと思う。もちろんそれも一つの要因、遠因だとは思う。でもなにかそれとは異なる因子があるような気もしてならない。幾つか論調として出ていることだが、この犯人が酒鬼薔薇聖斗と同じ世代であることからある種の共通性を示すような部分とか。かっての「14歳という問題」はそのまま解きほぐされることなくそのまま10年の時を経て「25歳という問題」になって我々に様々な事柄を突きつけてくるのかもしれないということ。
・「25歳」という若者たち。それは世代としていえば、まさしく我々50代の世代の子どもたちなのである。我々は自分の子どもたちの生きる環境をどんな風に形成してきたのか、何かそういうことを突きつけられているかのようで、けっこう実はつらいテーマをいろいろ考えなければいけないのかもしれないということ。