義父の一周忌

義父の一周忌が長野であり出かける。午前中に家を出て、長野に昼頃に着く。法要が終わって6時過ぎにとんぼ返りで帰ってくる。けっこうハードな一日。
義父が亡くなったのは昨年の4月20日のこと。早いものだとは思う。妻にとっては実父でありより感慨深いものがあるのだろうが、私の場合どうしても忘却の彼方みたいなことになってしまう。不義理は申し訳ないが、結局生きていくっていうことはそういうことなんだろう。
そうやって死のことなんかを考えると自分の父親はいくつの時死んだんだっけなどと思いやってみたりもする。確か私が30ぐらいの時だから、すでに20年も昔のことになるわけなのだ。ある意味自分にとって一番大事な存在だった人ですら、そうやって記憶の奥底にしまいこんでしまうわけなのだ。
法要の時、やってきた若い僧侶が法話を最後に話した。その中で法要というものは亡くなった人のことを思い出す契機になる、そういう日なのだとみたいなことを話されていた。なるほどなと思った。実際のところ生きている我々は死者のことをどんどん忘れ去っていく。悲しいことだけど多分事実だ。だからこそ一周忌、三回忌といった法要を行うことで、生きることにあくせくして忘れ去ってしまった死者のことを考え、思い出し、その思い出をみなで語り合うというわけだ。法要の意義とはまさにそういうことなのだという。
義父の死のことを考え、昨年4月の記憶を呼び起こす。そいうえばヴォネガットが死んだのも春満開の去年のその時期でもあったわけだ。