『人のセックスを笑うな』

人のセックスを笑うな (河出文庫)今公開中の映画のほうではなくその原作のほうの話。ずっと気になっていたのだが本屋で買うのには妙に気恥ずかしくそのままでいた。でもいよいよ読みたいなと思い若葉ウォークにある本屋に立ち寄ったときに購入した。映画公開中でもあり、まさにミーハそのものなのだが、どうせならとも思い『チームバチスタの栄光』と一緒に購入してみました。完璧でしょう。
でもって『人のセックスを笑うな』である。このタイトルのインパクト。このタイトルを思いついたときにこの作品の成功は約束されたも同然ではないかと、そんなことを常々思っていた。まさしくタイトルの勝利である。「人のセックス」を「笑うな」である。どんな中身か読んでみたくなるのが人情というもんじゃないかい。
内容はというとこれも多くの書評で書かれていることなんだが、きわめてストレートな恋愛小説、青春小説なのである。美術専門学校に通う19歳の男の子と39歳の美術教師との恋愛。しかも彼女は人妻である。20歳も年上の人妻との不倫、生徒と教師の肉体関係、そういう奇抜なシチュエーションでありながら、この小説はきわめて真っ当な青春小説なのである。表現もまたストレートで読みやすい。お話も時系列的でわかりやすく、そのすかすかでポイントの大きい活字を含めてとっても読みやすい短編小説ということなわけだ。1点をのぞいて。
その1点とは、この小説が女性作家によって書かれた「女性が男性を装う」形で男の子の一人称によって綴られたお話だということ。そのへんは巻末の解説で高橋源一郎が幾つかこの小説を読み解くためのヒントをちりばめてくれているのだが、その中でも強調していることだった。そうこれが普通の二十代の男の子によって書かれた小説であれば、新鮮な感受性とかなんとか、まあそういう感想の一つも添えてあげればそれでいいじゃんという、まあそんな程度の小説なのである。
ところがこれを女性が書いたということで、もうひねりが加えられているということになる。おまけに書いたのが山崎ナオコーラという風変わりなペンネームの人なわけで。このペンネームの由来はコーラが好きだからということらしい。解説で高橋源一郎はこのペンネームの象徴性をこんな風にあげつらっている。いかにも源一郎風なのであえて引用してしまおう。

山崎ナオコーラ」とはいったいどんな名前なのか。ふつうなら「ナオコ」だろう。そして「ナオコ」なら、間違いなく、女性の名前だ。日本文学に詳しい読者なら、たとえば、堀辰雄の『菜穂子』のヒロインを、サナトリウムで喀血して死んでゆく女性の名前を連想するかもしれない。いや、村上春樹の『ノルウェイの森』の「菜穂子」もまた、療養所に入り死ぬのである。「ナオコ」という名前には、日本文学の真相意識の中に流れる、湿ったなにかが、死に近いなにかが、存在しているのかもしれない。では、「ナイコーラ」即ち「ナオコ+コーラ」とはどんな名前なのか。どうして、そんなふざけためいめいをしたのか。
それは、高度資本主義社会下で生きる女性の名前だ。そして、あの不吉な「ナオコ」たちとは異なり、その世界で雄雄しく生きていこうとする意志を示している。そのためには、神聖な個人の名に、もっとも資本主義的な記号をつけてもかまわない、といっているのである。
「解説 そう簡単なものじゃない、あるいは、この小説の読み方」 高橋源一郎

長き引用したけど、ようするにこのペンネームのレトリック性をあげつらっているわけだ。私もある意味同感ではある。まあ「高度資本主義社会下で雄雄しく生きていく意思」などとだいそれたことは思わないけれどね。
話は急に変わるが昔、高橋源一郎の家までサイン本取りに行ったことがあったっけ。石神井公園の池近くのマンションだったかな。美人の奥さんと別居中だったような気がする。あの奥さんは何人目だったんだろう。今思うとマンションはけっこう狭かった印象がある。源一郎さんは気弱な感じで妙に優しかった。江川と一緒にウルグスとかに出るのはずいぶん後のことだったから、メジャーな存在ではなかったけれど、評論や小説ではいろいろな意味で一目おかれる存在になりつつあった頃のことだ。
話は戻る。山崎ナオコーラという意図的なペンネームをもつ女性が書いた『人のセックスを笑うな』という恋愛小説は、そうなると何か裏があるのではないか、このストレートな表現がすでになにかの暗喩ではないのか、そんな勘ぐりを持たせる。作家のペンネームとタイトルがセットになってある種のレトリック性を生み出しているような気がしてしまう。
そうやって読んでいくと主人公の青年「磯貝みるめ」君にしろ、20歳年上の美術教師「ユリ」にしろなんとなく、なんとなくだけど類型的な記号めいた存在として描かれているような気がしてならなくなる。二人とも妙に中性的な感じであり、描かれる二人のセックスもどことなくリアリティを喪失している。
登場人物のリアリティが希薄なのではなく、現代の若者たちの存在自体のリアリティが希薄なんだとさらに逆説的に言うこともできるのかもしれない。しかしこのすらすら読めてしまう19歳の男の子と29歳の女性のラブ・アフェアが、あまりにもストレートなために、またあまりにも平易な文体のために、実はなにか別のなにかに対する寓意性として裏読みできてしまうのだ。
二人の恋愛は本当のことなんだろうか、例えば、本当に例えばだよ、この物語って引きこもりの少年の妄想の産物なんじゃないのかとかさ〜、例えばの話だよ。でもこのお話には徹底してリアリティが欠如しているようにも思える。読みやすさはそのまま細部での細かい記述や描写を徹底して排除してしまったために獲得されてもいるように思える。細部のリアリティがないため全体としてのリアリティも当然ない。リアリティの欠如がこのお話のある種の御伽噺めいた部分につながっているようにも思えるのだ。
まあなんにせよだ、1時間足らずで読み終えることができる薄っぺらな短編でありながら、心に残る面白みをもった小説、そんなところだろうかね。映画はたぶん観ないとは思うけど、この作家の小説はたまには読んでみようかと思うかもしれない。いい年してもまだ、このあたりの小説は多少とも享受できる範囲内ではある。とはいえけっこういっぱいいっぱいではあるけどね。