慰霊の園

13日〜15日まで長野に行っていた。義父の新盆でもある。娘にとっては唯一の田舎であり、大好きな祖母や叔父たちとも再会できて、よかったようだ。
今回は日中ドライブだったのでお盆休暇中でもあり高速道路では行きも帰りもそこそこに渋滞にはまった。15日の帰りにはお盆休みの最後でもあり多少の観光をしたいとも思い、下仁田で高速を降りた。そのまま南牧村に向け山道を進み磐戸から塩の沢峠をと思っていたら、湯の沢トンネルという立派なトンネルができていた。以前通った時にはこんなトンネルはなかったなと思い調べてみると2003年に出来たらしい。以前このあたりを走ってから5年くらいになるのだろうかなどとつたない記憶をたどるが今ひとつはっきりしない。季節は秋だったかな、しかも夕刻の薄暗い中だったので、あまり周囲を見やる余裕もなくただただひたすら上野村をめざしていたような記憶。
トンネルを抜けると見晴らしのいい下り道を少し走る。すぐに299号線に入る。ちょうど十国峠とぶどう峠の分岐あたりだ。上野村には小海から入ってぶどう峠を越えて来ることがほとんどで、4〜5回通っているんじゃないかと思う。今日いろいろ調べていたら、ぶどう峠は武道峠なんだって。てっきりグレープのほうだとばかり思っていた。
299号に入ってからしばらく行く。記憶では左側に日航航空機事故の慰霊の園があるはずだ。以前から案内板で見知っていたのだが、今回初めて車を向けた。トンネルの手前の側道に入り狭い道をしばらく行くとほとんどユーターンするくらいに右の急坂に入る。そこからほんの少しきつい上りを行くといきなり開けた場所に慰霊の園があった。
http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm
しんと静まり返ったその場所には、大きな三角錐の慰霊塔がそびえている。その慰霊塔の先には8キロ先に事故現場である御巣鷹の峰があり、それを拝むように配置されているのだという。その慰霊塔の裏側には事故で亡くなった520名の方々全員の墓碑銘があり、その上方には身元識別不可能として荼毘に付された犠牲者の遺骨が納められた納骨堂がある。
慰霊塔の前で私も妻も娘も手を合わせ焼香をした。気がつけば8月12日から三日後のことでもあるわけだ。観光、興味本位と言われればそのとおりなのかもしれないが、どうにも神妙な気持ちになる。それから墓碑銘を名前を一人一人ゆっくりと読んでいく。520名というたくさんの人生が一瞬にして失われたということが、とてつもなく恐ろしいことであると、じわりじわり感じられていく。22年もの歳月を経過してもなお、この地には失われてしまった生の残滓が漂っているような気がしてならなかった。
失われた人々の無念と遺族の喪失感。それらはけっして風化されることなくこの地にあり続けているのだろうと思った。帰ってからこの事故のことをいくつか調べて見る。20年を経て様々な事実が紡ぎあげられて、この事故の全貌はある程度はっきりしているようだ。それにしてもヴォイス・レコーダーに残されたコックピットの様子には鬼気迫るものがある。また墜落間際に書いたと思われる遺書が数通残されている。その痛ましさ。
聞けば持ち主の特定できない遺品等を当初日航は焼却処分にする予定だったが、羽田の安全啓発センターに保管展示することが決まったという。
事故を風化させないためにこれは必要なことだとは思うのだが、この安全啓発センターはあくまで日航の内部的施設のため土日祝日の見学はできないのだとか。出来ればこの地に、慰霊の園の近くに常設展示館でも作ってくれればいいのにとも思う。ここはある意味で520名の犠牲者の眠る聖地でもあるわけなのだから。
ここに慰霊碑ができた経緯については長く上野村の村長されていた黒澤丈夫さんのインタビューが詳しい。
http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-takeo.htm
上野村が慰霊碑を作り管理主体となっているのが、「行路病人及び行路死亡人取り扱い法」という明治32年にできた古い法律によるというを知り、少しだけ違和感を持った。身元を判明できなかった遺体の一部はすべて「行き倒れ」の死者という扱いになるということなのだからだ。
我々が訪れたのは正午少し前のことだった。こんな山の中にあってもすでに気温はゆうに30度を越す猛暑の真っ盛りのことだった。しんと静まり返った山間の地に蝉の声が微かに聞こえたような気がした。偶然ではあるのだが、それは終戦記念日でもあった。
私にしろ家族にしろ、少しだけ人の生と死について考える時間だったような気がする。