格差社会の現実

昨日(14日)の朝日朝刊の経済欄に「労働者派遣法」についての記事が載っていた。98年に派遣自由化が国内外の規制緩和要求に沿って政府の圧力のもとに決まっていった経緯がわかりやすくまとめられている。少しだけ引用してみると、

長期不況でリストラを迫られてた経済界が目をつけたのが「派遣労働者」の活用だった。正社員に比べて賃金は安く済み、簡単に人員調整もできる。政府と経済界は規制緩和の波に乗って、99年に「派遣の原則自由化」に踏み切る。そこから労働の「商品化」が急速に進んだ。今や労働者の3人に1人まで急増した非正社員が、低賃金で、いつ切られるかわからない、不安定な状態に置かれている。

99年に改定された労働者派遣法はその後、「製造業務への拡大」「派遣期間の延長」と、規制緩和が一段と進められた。企業はコスト削減の格好の手段として歓迎。事務職社員の新規採用を停止して派遣に切り替える企業が続出した。
携帯電話の普及で「日雇い派遣」も急増。実態は派遣なのに「請負」と装う違法な雇用形態も広がった。
今や働く人の総数5千万人のうち、派遣や契約社員などの非正社員の数は約1660万人。非正社員の平均月給(06年)は約19万円で、正社員の6割程度に低く抑えられている。その格差も労働問題の大きな課題になっている。

ある意味、派遣自由化を推し進めればこうなることは自明なことだった。それを政府、行政の調整能力、あるいは市場の合理性や企業家の公的責任を妄信した結果なんだろうと思う。
いつも思うことだが資本主義、市場主義の根底にあるのは何か、それは常に膨張していく人間の欲望だ。だからそれを抑えるには厳然たる政府=公的権力による力が必要なんだと思う。アダム・スミスのいう市場の自然的調整力=神の見えざる手なんていうものは、実のところあり得ないことなんだと。
本来的な派遣業務とはある種の専門性をもった技術者が流動的に適材適所で働くことを可能にするような制度であるべきだった。だから派遣社員とは実は正社員よりも賃金が高くあるべきだった。現在行われている低賃金の派遣社員とは、まさしく資本による搾取の典型例ではないかと思う。雇用を不安定にさせたこの制度の下では労働者はきわめて弱い立場におかれ続ける。彼らはいつ首を切られるかという恐怖におののきながら雇用者側の顔色を卑屈に伺い続けるだけだ。
さらには日雇い派遣という存在。なんのことはない、彼らは現代の立ちんぼうだ。ドヤ街で口入れ屋の呼びかけに殺到しなんとかその日の銭を手に入れる日雇い労働者。日雇い派遣などと言葉を変えたけれど、その実態はドヤ街のあぶれるかあぶれないかはその日の運次第という最底辺の労働者たちと同一なのだ。彼らはかってのドヤ街の口入れ屋にピンハネされるように現代の口入れ屋によって調整金名目でピンハネ、搾取され続けている。グッドウィルなんていう輩は名前こそ横文字で良さ気だけれど実態はたんなる組織された口入れ屋だということだ。
戦後の社会政策はこうした底辺労働者をいかに減少させていくか、安定した雇用を保証し生活を向上させていくかということだったはずだ。政府しかり、企業もそれに沿って活動をしていた。だからこその一億中流化だったのだ。そして皆が皆中の上になった時、ある意味での階級闘争は終わった。マルクス主義が役目を果たして眠りについた。それが70年代から80年代にかけての日本社会だったはずだ。
バブル崩壊とそれに続く長き不況が戦後培ってきた良き日本の経済政策、社会政策の総てを一変させてしまった。企業がグローバル化、国際競争力を御旗にして牙をむき出した。これまでの企業責任を放り投げ、利潤の追求に躍起になり、確立されたはずの労働者の権利をよってたかってむしりとった。その果てに生じたのが現在の続く好況とそれに反して拡大した格差社会という図式だ。
今の格差社会はこのままいくと何世代にわたって拡大していく。冒頭の記事にあるような非正社員の子息は正社員の子息と端から大きく差をつけられている。格差はそうやって再生産されていくわけだ。おいおい、あえて聞きたい。それはただの格差なのか、そういうのを階級っていうのじゃないのか。
21世紀の時代にあって、あえて19世紀先進国の社会状況の分析から生まれたマルクスの理論や概念は適応可能な状況になりつつあるのではないかと思う。公的権威・権力による富の再分配が必要なんじゃないのかということだ。
 同じ日のどこかのテレビでのお決まりの金持ち紹介の陳腐な番組をやっていた。不動産関係の若社長だというイケ面風の男が紹介されこの男は惜しみなく所有する十数台のフェラーリロールスロイスといった高級車を見せびらかす。もう見事なまでの成金趣味。こういう輩は真っ当な仕事をしてかくも金を溜め込んだとはとても思えない。
こういう連中からきちんとむしりとって貧困にあえぐ人々に再分配するシステムがなければ世の中は成り立っていかないのではと思う。
とはいえ分配システムはこれまでの歴史的経過ではだいたいにおいてうまくいかない。一つには人々の欲望を抑え続けることが不可能に近いからだ。市場経済の根底にある欲望、それを完全に押しつぶしてしまえば市場は成立しえない。
そしてもう一つは一国経済の限界だ。一国内で分配システムを効果的に成立させたとしても、その陰ではグローバルな分配システムがおそよ崩壊しているという図式。かれこれ数十年、あるいは数百年に及ぶだろうか、南北の格差はいまだ解消されていない。マルクス主義の図式はソヴィエトらの一国社会主義が南北問題にまったくの手立てをもてなかったことによって崩れ去ったともいえる。
80年代の不況下にあって経済界はグローバル主義、国際競争力を理由に様々な規制緩和を要求し実現させた。彼らが訴えたグローバル化の中に負のグローバル、南の視点はあったかどうか。まずなかっただろう。
かって多分70年代の終わりに私はこの視点にぶつかって思考を停止させたような記憶がある。富の完全なる適正かつ公平な分配の実現こそ理想的な社会だ。でも北に住んでいる、いわゆる先進資本主義社会に住んでいる我々にとってそれは難しいことだ。なぜか限りある資源を南北で公平に分配するということは、快適に暮らしている北側の人々にとっては相当なる不便を強いられるということ。要は今よりも低い生活レベルに、貧しい生活になりなさいといいうことだ。それを自分は、あなたは、納得できるのかどうか。理想的にはそれが正しいとしても生活レベルを意図的に落としていかなければならないということに承服できえない、そして思考を停止させてしまう。
今いわれている格差社会という古くて新しい階級社会。そこでの解決策なんてものは簡単に導き出されるのだ。金持ち、富裕層はその所得の70〜90%を税として徴収する。中産階級は50%程度まで徴収される。そうやって集めた富を再分配するということだ。ようはそれを納得できるかどうかということだ。
ずいぶんと青臭いことを久しぶりに思いついた。書き散らかした。でもおそよ見当違いということもないのではないとどこかで思っている。