義父逝去

昨年11月から入院を続けていた妻の父親が亡くなった。20日朝9時少し前だという。前夜も心臓が弱っているとのことで病院から呼び出しがあったとは聞いていた。会社には義兄から携帯で電話があった。葬儀とかの日程は決まり次第連絡をもらうことにして電話をきった。
すぐに自宅の妻に電話をいれた。妻はたんたんと聞いていた。すでに入院生活は六ヶ月にもなっていた。12月に一度、正月に数回、さらについ二週間前にも面会しているが、いずれもほとんど会話もできないような状態だったから、どことなく覚悟もできていたのだろう。妻はすぐにも長野へ行きたいようだったが、とにかく葬儀の日程がわかってからとだけ言いおいて電話をきった。
夕方までに何度か電話をして、お通夜が21日、22日焼き場で火葬にし、23日に告別式というスケジュールになったという。埼玉から田舎へ向かう身としては21日、22日ですめばいいと漠然と思っていたのだが、22日は友引であること、住職の都合がつかないということで三日間かけてということになった。
それで21日の朝、妻と娘を連れて田舎へ向かい二日間を過ごし告別式の後、こっちへ戻った。田舎でのことなので、ほぼ毎日なんらかの形で酒席みたいなものがある。23日は運転があるので酒は一滴も口にしなかったけれど、そこそこハードな三日間だったと思う。
義父とはそれほど交流があったわけではないけれど、やはり死を目の当たりにすると、なんていうのだろうしんみりとした寂しさみたいな思いを抱く。生きていた時にいろいろなことがたくさんあっただろうにと思うのだが、死は本当に寂しいものだとつくづく思う。老いて頬のへこんだ死に顔をみながらそんなことをずっと考えていた。
葬儀はたんたんと式次第を無機的に進行させていく。死者への様々な思い、そういうものを考えさせるひとときをけっして与えないように。悲しんでいる余裕などまったくない。それでも、それでも、一瞬、一瞬に寂寥と無常を思わざるを得ない。死ぬということは常に寂しい。それが生あるものが無に帰すということなんだろう。