「人間の心の奥底に潜む毒」って何だろう

名もなき毒
前回に引き続いて宮部みゆきの『名もなき毒』の読後感を書く。この本がメインテーマにしている人間の心の奥底にある「毒」とは何だろう。

「じゃ、普通の人間とはどういう人間です?」
「私やあなたが、普通の人間じゃないんですか」
「違います」
「じゃ、優秀な人間だとでも?」
「立派な人間と言いましょうよ」北見氏は疲れた顔で微笑んだ。「こんなにも複雑で面倒な世の中を他人様に迷惑をかけることもなく、時には人に親切にしたり、一緒に暮らしている人を喜ばせたり、小さくても世の中の役に立つことをしたりして、まっとうに生き抜いているんですからね。立派ですよ。そう思いませんか」
「私に言わせれば、それこそが”普通”です」
「今は違うんです。それだけのことができるなら、立派なんですよ。”普通”というのは、今のこの世の中では、”生きにくく、他を生かしにくい”と同義語なんです。”何もない”という意味でもある。つまらなくて退屈で、空虚だということです」
だから怒るんですよと、呟いた。
「どこかの誰かさんが”自己実現”なんて厄介な言葉を考え出したばっかりにね」 P337

「犯罪を起こすのは、たいていの場合、怒っている人間です。その怒りには正当な理由がある場合もあれば、ない場合もある。いや”ない”というのも、あくまで客観的にはないように見えるというだけで、本人にとってはちゃんとあるんですがね」  P339

私のこの家に、汚染はなかった。いえのなかは清浄だった。清浄であり続けると、私は勝手に思い込んでいた。信じ込んでいた。
だが、そんなことは不可能なのだ。人が住まう限り、そこには毒が入り込む。なぜなら、我々は人間が毒なのだから。・・・・・・・中略
その毒の、名前は何だ。
かってジャングルの闇を跳梁する獣の牙の前に、ちっぽけな人間は無力だった。だがあるときその獣が捕らえられ、ライオンという名が与えられたときから、人間はそれを退治する術を編み出した。名付けられたことで、姿なき恐怖には形ができた。形あるものなら、捕らえることも、滅することもできる。
私は、我々のうちにある毒の名前を知りたい。誰か私に教えてほしい。我々が内包する毒の名は何というのだ。P452

簡単に言ってしまえば、それは人間の限りなき欲望が生み出す幻想なのかもしれない。たぶんにかって読んだ岸田秀の「唯幻論」の引用っぽいけれど、もともと人間は「本能が壊れた動物」だ。だからこそ四六時中セックスばかりしている。ほかの動物のように発情期だけ秩序だって”している”のではなく、それこそ文字どおり”四六時中”だ。それは本能が壊れ、幻想を抱くことからきている。なんかそんな言説だったように思う。
限りなく生み出される欲望、欲求。それが実現されないことによる怒り。その怒りが見当違いの方向に直裁に向かって行く時、ある種の狂喜による暴力が生まれる、他者を際限なく傷つけてゆく。人間の毒っていうのはひらたく、本当にひらたくいってしまえば、そういうことなのだろう。
誰かが考え出した「自己実現」という言葉。端的にいえば、自分の能力・可能性が活かされ、発揮されることで様々な造的活動を生み出し、それによってより一層の自己の成長を図りたいという欲求。まあそんなところか。アメリカの心理学者マルローの言説で、人間の欲求を五段階に分類し、そのもっとも高次な要求としてあげたものが自己実現の欲求だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96
とはいえたいていの場合、人間は社会を生き抜いていく過程でそう簡単には自己実現が図れない。自分の能力、可能性と本人が信じきっているものが、世の中に活かされない、認められない状態が続くことによって、多くの人が自分の能力や可能性を下方修正する。まあそれが普通でしょう。しかし下方修正した自分の現実をどこかで容認、受容しつつも、どこかで認めない社会への怒りを蓄積させていくというのも事実だ。その怒りを自分の中でうまく昇華することができずに溜め込み一気にはけ口に爆発させる、それが人間の毒が他者を傷つけること=犯罪ということになるんだろう。
もう一つ、自己実現ときわめて近接した言葉に自己同一性というのがある。アイデンティティってやつだ。そこでいう本来の私が、自己実現を遂げた理想的な自分である時、えてして現実の自分との乖離がはじまる。そこで現実を逃避し理想的な自分が評価されないのは、社会が間違っているという身勝手な認識に立って怒りを倍増させる、毒をまきちらしていく。それがたいてい場合の犯罪の実相なのかもしれない。
もっとありきたりで簡単なことを小難しくこねくり回したような気もする。でも宮部みゆきの『名もなき毒』はそんなもろもろを考えさせるだけのものがあった。単なるエンターテイメント、ミステリーではない何かがある、そんな小説だったと思う。