『ウェブ進化論』を読んでいて思ったことだが、ネット大国、ネット先進国である米国と日本の相違についてだ。著者の梅田氏も様々にその点を指摘している。
日本の場合、インフラは世界一になったが、インターネットは善悪でいえば「悪」、清濁では「濁」、可能性よりは危険の方にばかり目を向ける。良くも悪くもネットをネットたらしめている「開放性」を著しく限定する形で、リアル社会に重きを置いた秩序を維持しようとしている。(P21)
米国のブログは、米国の文化そのものだなと思うことがある。
米国は実名でブログを書く人が多く、日本は匿名(ペンネーム)で書く人が多い。それとも関連するのかもしれないが、米国に住んでいて思うのは、米国人の自己主張の強さ、「人と違うことをする」ことに対する脅迫観念の存在である。彼ら彼女らは「オレはこういう人間だ、私はこう思う」ということを言い続けてナンボの世界で生きているから、ブログもそのための道具として使われる場合が多い。とてもストレートだ。
数日前にコメントを寄せていただいた方は、妻や娘のプライバシーを心配して下さり、人物を特定されるような記述を控えたほうがよいのではという趣旨のことを書いておられた。難しい問題だとは思う。たしかに物騒な世の中でもある。ブログの公開日記によって犯罪に巻き込まれるという事件すらおきているようだから。
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/yw/yw05041701.htm
でも、なんでそんな危険なネットをブログを多くの人が行うのかというと、利便性が勝っているからでもあるのだろう。またプライバシーの問題や人物特定についていえば、身辺雑記を連ねていけば、たぶん見る人が見ればわかるのではないかとも思う。よくブログやHPで家族や子どもの写真などをアップしているものを見るけれど、あれだって危険といえば危険なんだろうなと思うことだってある。
自身のことについていえば、妻には自分がブログを行っていること、その中で妻の病状を書き綴っていることも話している。娘はまだ小さいのでブログのことを理解しているとは思えないが、「パパはパソコンで日記を書いているんだよ」と話してある。友人知人にもブログを書いていることは何度か話したことがあるし、どんなことを書いているのかと聞かれれば、ハンドル名をくぐってみてくれればヒットするよぐらいに応えている。また、親戚などにも妻の病状をその都度電話で説明する時間的余裕がないので、ブログを見てくれみたいなことを話したこともある。
なぜブログでこんな風に妻の病状とかを書いているかといえば、以前にも書いていたことだがとにかく記録をとどめておきたいと思った。それも出きるだけ客観的な視点をどこかに残しておきたいと思った。だからこそ公開を前提としたブログというメディアを利用しているのだ。公開することによって妻の人格を毀損する可能性はいつも考えてもいる。
http://d.hatena.ne.jp/tomzt/20060408/p1
でも常に思っていることだが、妻は病気によって障害者となってしまったけれど、それによって妻の人格が損なわれたことはないのだということ。妻の人格に最も配慮しているのは、第一の介助者である配偶者の私自身だという自負もある。
ブログを書くことでの具体的な利点もすでに見いだしている。私のブログのような世界の片隅でぶつぶつ言っているいるようなものは、多分アクセスもリンクもほとんどあってないような、それこそ本当にとるに足らないものだとは思っている。それでも数少ないコメントの中には、今後の様々な申請手続き等で参考になる暖かい助言を幾つかいただいている。普通に仕事と病院通いだけしていては得ることが出来なかった情報もありたいへん有難く思っている。
ブログの意義について言えば『ウェブ進化論』でもブログが社会現象化した理由としてあげていたことだが、「書いてもどうせ誰の目にも触れないだろう」から「書けばきっと誰かにメッセージが届くはず」ということなんだと思う。私自身、今はこんな風に書き綴っているけれど、いずれ飽きてやめてしまうかもしれない。もしプライバシーのことを含めて、何らかの不具合が実際的に生じたら、非公開にするとかの選択肢もあるだろう程度に考えているだけだ。
匿名性と実名についていえば、今私が書き綴っている程度の内容でいえば、別にどっちでもたいした差はないのではと思っている。はてなダイアリーをはじめた時でも、とりあえずずっと使っているハンドルをそのまま使っただけのことで、あんまり深く考えてもいなかった。今なんとなく考えているのは、あまりその可能性があるわけではないのだが、ビジネス面でブログを利用するような状況があった時は、とりあえず実名で行う必要はあるのだろうなということだ。より責任の所在を明確にしてメッセージを書く必要性があるだろうからというのが理由なのだがどうだろう。
このテーマについても幾つかの論説があるようだ。
http://blog.livedoor.jp/tomabechi1/archives/21579087.html#comments
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/442931
個人的な感想をいえば、匿名より実名のほうが良いとは思う。とるに足らぬ類のものであれば別に匿名であっても別にかまわないだろうという程度の考えではあるけれど。そして実名のほうが書いたことへの責任の所在が明確になるという意味でもだ。さらにえいば、匿名であってもよっぽど抽象的なことやフィクションだけを綴っているのでない限り、それこそ前述したように見る人がみればけっこう特定は可能だろう。また基本的なことでいえば、アクセス解析等によってそれこそIPアドレスやリモート・ホスト程度の情報であれば、簡単にたどりつくことが出来る。自己レスで試してみたがコメントからIPあたりは簡単にくぐれるようだ。でもそんなことは実はどうでもよいことだ。IP抜かれてもいわれるほどの実害などはないのだから。
ようは匿名性による無責任性の問題ということになるのだろう。日米のブログ比較でいう日本の匿名性は、両国民の性格上の相違、アメリカは自己主張的、日本は控えめといった皮相的な見方よりももっと本質的な問題を抱えているような気もしないではない。個人が個人としての責任でメッセージを発信するという、市民社会での個人主義が定着しているかどうかという部分だ。日本ではまだまだ集団の中での顔の見えない個人しかいないということなのか。集団に依拠することで、個人として対峙されることもなくある意味集団に守られたその他大勢の一人としての存在。ある意味じゃ、戦前のムラ社会、戦後の企業社会という第二のムラの中でずっと培われてきたひよわな個人だ。それがネット社会の中で個人としてのメッセージを発信する場合に、集団に属することができないために匿名化せざるを得ないということなのかもしれない。
自分自身のことについてはどうだろう。ネットで実名での発信を行わないのは、単にこれまでずっとハンドルでやってきた延長上ということがあるかもしれない。どこかに匿名に依拠することの気楽さみたいなものももちろんある。さらにいえば、実名化することによって様々にありそうな煩雑さをクリアしたいみたいな部分もあるだろう。匿名は楽ということだ。はてなダイアリーにしても、実名で行ってもさほどたいした利害はないようにも思う。なにか問題があれば非公開にしてしまえばいいだけのこと。それ以前にいずれ飽きてやめてしまう可能性だって大きいのだから。さらにいってしまえば、実名だろうが匿名だろうが、社会の片隅に生きる私のことなど誰が気に留めるのかみたいな気持ちが正直ある。誰にも影響を及ぼすような存在ではないこと、それは実名であろうがなかろうが、無名性の極みみたいなものだ。そんな気楽さということだろう。
2chnのような掲示板では匿名性の弊害が多々見受けられる。無責任な荒らし、個人攻撃や誹謗中傷などが多数存在する。一方では、板によっては、きわめて良心的なスレが集うものも多数存在する。そこで交わされる発言などは、実名であっても何も差し障りがないものもある。ネット社会は玉石混交ということなわけだ。ようはしょうもない石の部分を徹底的にスルーして、石同士が磨きあって玉を成していくということなのだろう。
危険だ危険だといわれるインターネットがこれほど爆発的に利用されるようになったのは、前述したように利便性が勝っているからにほかならない。今後予想されるWeb2.0の本質は以下にまとめられている。
ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく能動的な表現者と認めて積極的に巻き込んでいくための技術やサービス開発『ウェブ進化論』(P120)
このWeb2.0が普及していくにつれて、これまでの個々人が一方的な享受者であったネット利用が大きく変動していくことになる。これまでの日本でのインターネット利用はある意味、ネットを介したメールの利用と、オヤジ達のエロサイト閲覧が主であったのではないかと実は密かに思っている。それが日本でのネット利用を爆発的に広めた原動力だったのではとは常々居酒屋なんかで公言してきたことだ。実際、ネットを介したP to Pとしてのメール利用、それとエロサイト閲覧を含めた電動紙芝居としての趣味性、深夜に密かに匿名個人としてPCの前に座って楽しみ受動的な世界、これらがネット利用のすべてだったんじゃないかと思っている。
それが変わってくるということだ。その時の前提として、つまりはメッセージを発信する側の前提条件としては何か。きわめて当たり前のことではあるが、匿名、実名に関わらずメッセージに対しての最低限の責任制の自覚、他者への無神経な誹謗、中傷を行わないというモラル、ネットを介在した不特定多数の個人に対する考慮、そうしたことなのだろう。
ネットは危険なものかもしれない。しかし、『ウェブ進化論』が大々的に喧伝しているような、ある意味での「ネット性善説」は必要なのかもしれないとも思う。危険なのはネットではなく、ネット利用する人間なのかもしれない。