『壊れた脳 生存する知』

壊れた脳 生存する知

壊れた脳 生存する知

 最近読んだものの中では出色の好著だ。三度にわたる脳出血によって高次脳機能障害片麻痺、嚥下障害などの様々な障害を持つ身となった女医の記録だ。二十代の前半に一過性虚血発作と脳出血を起こしたがこの時は後遺症もなく整形外科医として活躍、三十四歳の時に脳梗塞を併発し重度の高次脳機能障害に陥る。その後リハビリ医として研鑽を続けるが三十七歳で再び脳出血を起こし巨大血腫を摘出する。三度目の脳出血により片麻痺や嚥下障害等も併発する。この人は三十歳の時に一児を設けたばかりだったので、まだ小さい子どもを抱え障害者となったわけだ。さらに三度目の脳出血の後に離婚して子どもを一人で育てるという状況にある。そんな中で医師という科学者であるこの人は自らの病状を内面から綴っていく。脳に障害を負った人間が自分の病状を観察し、それを文章化することの困難さを思うとこの人のすごさ、バイタリティには感服せざるを得ない。
 とにかく一度にはこの本の感想をまとめ得ない。自分の読書体験としても得がたい部分もあった。また妻の闘病の参考にする部分多々あるので、たぶん何回かに分けて様々な引用や感想を記していきたいとは思っている。しかし、この著者のすごさとともに、この本の作りについても見事だなと思わせるものがあった。とにかく読ませるのは著者の力ではあるけど、それとともに本の構成、章立て、最後に神経心理学のエキスパートの病状解説を載せるといった内容に編集者の力量のほども感じさせられた。さすが講談社だ、『五体不満足』をミリオンにしてみせた編集力を垣間見せるものがあるなと思った。
 脳障害の患者からの闘病記は少ない。それについては栗本慎一郎氏の著書『脳梗塞になったらあなたはどうする』にもこんな記述がある。

脳梗塞の闘病記はマレである
 脳梗塞にかかった患者は、ほとんどが「脳をやられた」というショックから、闘病記を世に出してやろうとか、自分の状態を世に報告しようという気になれないのである。逆に、今言ったように、うつ病にもよくかかるくらいだから・・・。(中略)
 末期癌の患者は、普通、麻痺も言語障害も持たない。むしろ、限られた期間の生を有効に生きようという「意欲」のようなものも絶望の中にかえって湧いてくるようである。だから、病を正面から見つめる記録がよく書かれる。
 ところが、脳梗塞の場合、言語障害を起こしてしまえば、当然、病状報告どころではなくなるし、麻痺が必ず上半身を襲い、結果として腕をも襲うから「書く」という作業が、ひどく難しくなる。この困難さに加えて、脳をやられたという精神的ショックは創造以上に大きいものがある。これが、何かを報告していくという知的作業に、なかなか踏み込めない理由だ。(中略)
 脳患者にはさらに、癌では起きない情動障害が起きることもある。だから自分に起きている感情を客観的に記述するのが非常に難しくなる。これが癌患者に比べて大きなハンディになる。

 栗本氏の場合、そういう状況に陥っても自分は見事に闘病記をものにしたという自負というか、この人独特の自己宣伝めいたアクの強さが、自信過剰が滲み出る部分がある。それが多少鼻につくとしてもこの人の脳梗塞からの見事な生還はやはり偉業ではあると思うし、この人が常人には考えられないくらいの努力、研鑽を続けていることには多大なる賛辞を与えたいとも思う。この自信満々な栗本氏にしても最初は闘病記執筆にきわめて消極的だったという。
 それほど脳障害の症状は重く、患者にはつらい状況なのだ。そんな状態に陥りながら山田規畝子という医師は見事に自分の症状を文章化してみせている。この本の巻末で神経心理学の第一人者である山鳥重氏が著者の障害の解説をしているのだが、その冒頭にはこうある。

 本書は、医師という病気を診るプロが、自分の病気(認知障害)について書きとめた書である。通常の闘病記というのは、正常な脳の働きを持っている人が、正常な脳の働きに依存しつつ、脳以外の臓器疾患について書き記すのがほとんどで、自分のことには違いないが、客観視できる対象(疾患の罹患体験)について記録したものといってよい。
 本書の内省の対象は、自分自身の心の障害である。壊れた脳が作り出す、自分の心のほころびについて率直に語っている。言うまでもないことだが、心という現象は主観的なものであり、本人以外には経験できない。われわれ医療関係者が脳損傷障害と関わる場合も、行為として現われたもの、つまり「できたかできないか」という反応以外は何も見えない。なぜこんなことができないのかという理由(背景メカニズム)については、何もわからないのである。
 われわれにできることは、その理由を推測し、仮定することだけだる。障害者当人は、本当にはわかってくれない周囲に対して、不満やいらだちや怒りや屈辱感を募らせる。しかし、だからといって、自分がどういう状態にあり、どんな手助けをしてほしいのかなどということを周囲に教えてくれるわけではない。本人自身が薄闇の中にあり、そんなことはできないのである。その薄闇にある自分の障害と向き合い、その内容を教えてくれるのが本書である。

 それではなぜ山田女史がこの闘病記をものにすることができたのか。それは医師であり、また家庭的にも父親が地方で病院経営をしていたという出自、障害にあった後も医師である義兄の経営する老人福祉施設の施設長として社会復帰できるという経済的にも社会的にも環境に恵まれた部分ももちろんあるとは思う。しかしそれ以上に医師という科学者としての知的好奇心が勝っていたのだと思う。そういう意味では著者はたぶん発症以前も相当に優秀な医師だったのではないかと思う。

 私は高次脳機能障害という未知の世界に、医者としてひどく心を奪われていた。どんな本にも書かれていない摩訶不思議なことが、毎日、私自身の身に起こるのだ。その理由を、そのメカニズムを知りたいと思った。
 私の脳の外にいる人にはけっしてのぞくことのできない、私だけの世界。脳が壊れた者にしかわからない世界。正常な人は気づかない、誰も立ち止まって見たことのない脳の中。みんな頭に、ちゃんとひとつずつのせて生きているというのに。
 高次脳機能障害は、裏を返せば壊れた脳の部分が正常であったときにどんな役割を果たしていたかを教えてくれるものでもある。手当たり次第に本を読むうち、壊れた脳の示す症状から、正常な脳の同じ部分が何をしているのかを知る学問を「神経心理学」と呼ぶことを知った。
 自称、学級肌。じつは単なるオタクの私は、「めっちゃおもろい」と思い、その分野にのめりこんでいった。(中略)
 私が脳卒中後、毎日繰り返している失敗にも、必ず科学的理由がある。それを知ることは、自分の障害を理解し、乗り越えていくための大きな助けとなるはずである。
 脳卒中で後遺症が出ると、多くの人は何もできなくなってしまった自分にショックを受け、絶望感にひたりがちだ。まわりの人がぜんぜんわかってくれないと感じたり、自分を受け入れてくれない社会を恨んだり、自分だけが社会から取り残された気がして、あせることもあるだろう。
 こんなつらいリハリビを続けてなんになるんだと、障害から目をそむけ、すべてを投げ出したくなるかもしれない。私だって、しょっちゅうそんなネガティブな気分になる。
 だけど、つらい、悲しい、大変だ、とぼやいていても病気がよくなるわけじゃない。へこだまま、立ち止まっていたくはない。理由もわからずに、やみくもにもがき苦しむのもごめんだ。なぜ自分がこんなことで苦しんでいるのか、原因が知りたかった。この障害を客観的に見つめて、正体をつきとめたかった。
 独学を続けるうちに、病気になったことを「科学する楽しさ」にすりかえた。自分の障害を客観的に面白がるようになれば、こっちのものだ。これまでやってきた数々の失敗も、理由がわかると「なあんだ、そういうことか」と気が楽になる。