学校へ行く

 昼過ぎに家に帰ってから、そういや同じ学童に通う子どもの親御さんに子どもが休むことを連絡してなかったことを思い出した。学童へは同じ学年の子ども数名で集団で行くので、連絡しておかないと子どもはいつまでも待つことになる。それで学童側もなかなか子どもがこないということで大騒ぎするとかあるから、必ず連絡しなくてはいけないわけ。ちなみに月曜にこれやってます。しかし、一々子ども学校休ませるのに、学校への届けを集団登校の班長に渡す、学童に連絡する、学童に通う他の子の親御さんに連絡する。この三つを朝のクソ忙しい時にしなければならないわけ。ほんと小難しい世の中になったもんだと思う。
 それで、授業の終了を見計らって学校に出かけ、同じ学年の学童に通う子どもを見つけ、今日は休みと告げる。で、今日は金曜だから体操着とか持ってこなければならないので、教室に向かい担任の先生と会う。先生に病名を説明し、熱とかなければ月曜は登校させる旨告げる。妻のことを聞かれたので、病状を簡単に説明しけっこう深刻な状況だと言うと、途中で話をきって「それ以上はお聞きしません。どうせこちらで出来ることはありませんから」の一言。この先生、けっして悪い人じゃないし、学校として、担任の教師としては、まさしくなにも出来ない、しれあげれられないことは確かだろう。こっちも何かを期待しているわけじゃない。でもさあ、もう少し言葉選べよな。こういう無神経な物言いがどうして出来るんだろう。
 学校の先生なんだから、いろんな環境の子どもと対峙することになる。親の経済状態とか様々な状況がある。でも出来ることって確かに限られている。もちろん親身になっていろいろ考えたり、行動してくれる教師も少なからずいるだろう。でも、それってたいての場合は無償の行為だ。今日のサラリーマン先生たちからすれば、出来れば仕事増やしたくない、ましてそうした無償行為で逆に責任背負わされるような状況になったら上からもお叱り受けるだろう。学校としての責任みたいなことになったらとか、いろいろ。気持ちはわかるよ。でも、それにしてもなあ。教師にもセラピスト的な側面を持って欲しいけどそれは多分無いものねだりなんだろうが、出来れば精神医学的な研修だの教育だのも受けて欲しいと思う。
 妻がこういう状況になってから様々な方から同情をこめたお言葉をいただいている。「私に出来ることがあったらなんでも言ってください」みたいなお言葉もある。でも、どこかで何も出来ないけどとか、出来ることは限られていますけど、みたいに予め伏線、予防線を張った上でお話する方も多々いらっしゃる。まあ、そういうことなんだよね。所詮他人毎なわけだし、もしいろいろお願いされたらどうしようみたいな部分ももちろんあるのだろう。でもだ、とりあえず不幸な身に陥ったこちらとしても、他人様になにかを期待しているわけでも実はないのだよ。ある意味、同情してくれるだけで十分有難い、優しい言葉をかけていただけるだけで本当に感謝しているんだ。
 とりあえず妻の病状のこともあるし、自分一人で妻のことや子どもの面倒をみなければならない。もちろん仕事だって疎かには出来ない。それが我が家の生計の糧でもあるわけだから。でも差し迫ってはハンパじゃないローンを抱えていることはいるけど、それなりの蓄えもあることだし、まあなんとかやっていけるだろう、なんとかやっていくしきゃないと思っている。なにも優しい言葉を戴いたから、早速金の無心をしようとか、そういうことではないんだ。張り詰めた気持ちの中にあると、ほんとうに他者からのほとんど儀礼的なものでさえ、優しい言葉になにかこみ上げてくるものがある。有難いと心から感謝の気持ちで一杯になる。それだけでけっこう救われる部分があるんだ。