穏やかな一日

 前夜、娘を寝かせてから近所のラーメン屋に一人で出かけた。中生二杯、から揚げ、味噌ラーメンの定番コースでほっと一息。帰ってからネットでまたまた脳梗塞のことなどなんだを調べていたらいつの間にか明け方近くになっていた。でもって今朝は10時近くまで寝ていた。まだ寝ていたかったが妻からの電話で起こされる。彼女曰く「早くきて」。
 病院に着いたのは二時半頃だったか。早速妻を車椅子に乗せて娘と三人で散歩する。病院の外にちょっと出て近くの戸山公園まで足をのばした。穏やかな午後のひと時。妻が病気でなければ家族三人でのなんでもない散歩、傍から見ればそこそこ幸福そうな家族の風景でしかない。でも違っているのは妻が車椅子に乗っているということだろう。これからずっとこんな風にしていくのだろうという、ちょっと悲しい予感もする。
 妻が倒れて以来、ずっとそう考え続けてはいることだが、妻の病を受けとめ、その現実の中で生活を築いていかなければならないということ。でも、頭でそう考えながらも、どうしても割り切れなさが残る。なんで妻がこんな病に倒れなければならなかったのかということ。早い話、なんでうちがみたいな気分、やり切れなさが残る。安易な救済手段なんかないだろうと思いつつも、なにかにすがりたくともなってくる。人が宗教とかに引かれるのもわかるような気もする。でもこの現実を否定することもできなければ、逃避することもできないわけだ。
 障害が残った患者がリハビリをしながら障害と向きあい克服していく心的過程としてよくいわれるのは、発病、ショック、否認、怒り・うらみ、悲嘆・抑うつ、解決への努力、受容(克服)という流れだ。しかし得てして悲嘆・抑うつの後に解決への努力ではなく諦めという方向にいく場合もあるようだ。これらの心的過程はなにも患者本人だけでなく、周囲の者、家族にもあるとは思う。家族は患者に最も近しい立場だから同じような過程をたどりつつも一足飛びに受容(克服)を頭では考える。理性的な判断としてはだ。でも、その実はなかなか障害を全面的には受け入れるところまではいかないのだろう。
 でもだ、一番辛いのは患者本人なわけだ。家族はサポートする側なわけなんだからと自分に言い聞かせていくしかないのだろう。帰りに娘に話した。「ママのお世話、頑張ろうな。きっとママ良くなるから」ずっと、ずっと続いていくことなんだが、娘は「うん」とちょっと眠そうだったが小さく返事をした。