労基署にいく

 妻の突然の脳梗塞の原因はなんだろう、ずっとこのことが頭から離れない。今入院している国際医療センターでも、当初から脳梗塞と若干のクモ膜下出血が併症している原因は不明とだけ説明されている。以前から例えば高血圧があったとか、動脈硬化があったということも聞いたことがない。病院でもベッドに横たわる妻にこれまで健康診断とかで引っかかったことないのかと何度も聞いた。彼女は特にないという。しいていえば貧血症気味であるといわれたことがあるというだけ。血圧はどちらかといえば低血圧気味。コレステロール値も正常。動脈硬化の疑いも一切なし。煙草も十年以上前にやめている。喫っていた時もせいぜい一日10本程度だ。酒は晩酌としては毎日缶ビール350ミリを一本。たまにワインをコップ一杯程度だ。もちろん月に何回かは飲みに行くけど、せいぜい中生を3〜4杯、多くても5杯くらいだ。甘いものが好きでやや太り気味ではあったが、それもオヤジ連中の中年太りと比べていえばさほどでもない。
 脳梗塞の予兆として例えば頭痛とか手の痺れとかもなかったという。それじゃこのいきなりの脳梗塞はなんなんだ。で、いきつくところといえばここ二、三ヶ月、毎日のように残業をしていたこと、それに行き着いてしまう。妻の会社は九月決算なのだが、八月に経理関係のシステム担当をしていた責任者が急遽退社してしまい、その人の持っていた仕事を残された経理部員で分担してこなしていたらしい。そのためか八月後半からだんだんと帰りが遅くなってきていた。九月から十月にかけてはだいたい家に着くのが九時台から十時台、十月後半からは十一時過ぎというのがざらにあった。
 もともと仕事で疲れるからといって土日は家でぐーたらしていることが多かったのだが、彼女にいわせると「土日のんびりすることで、なんとか持たせているの」が口癖ではあった。それが十月には三回、土曜出社も重なっている。それまで子どもの学童へのお迎えは、夫婦どちらか行ける方が行くというなんとなくの分担が成立していた。でも考えてみると八月以降、ほとんど私がお迎えにいくことになっていた。なんといっても私のほうが通勤時間が短いから仕方がない部分もある。とはいえ私も七時過ぎまで仕事をしていて、結局お迎えが八時を過ぎるみたいなことも週に1〜2回はあった。
 結局突然の急病の原因として素人考えで行き着くのは、彼女のここ数ヶ月急激に増えた残業とそこからくる疲労のためじゃないかということだ。業務上の疲労蓄積で倒れたとなると考えるのは労災ではということ。で、知り合いの組合関係者に意見を聞くと、ある程度認定の要件は満たすんじゃないかという話もあった。
 ネットでいろいろ調べると、脳・心臓疾患での労災認定はなかなか難しいらしい。それでも最近は、「脳・心臓疾患の発症に影響を及ぼす業務による明らかな過重負荷として、発症に近接した時期における負荷のほか、長時間にわたる疲労の蓄積」もある程度は考慮されてきているという。ただしこのハードルがなかなか高く「発症前一ヶ月前におおむね100時間又は発症前二ヶ月ないし六ヶ月にわたって、一ヶ月当たりおおむね80時間を越える時間外労働が認められる場合は、業務と発症との関連性が強い」とされている。
 妻は毎朝八時五分頃に家をでている。会社に着くのは九時十五分〜二十分頃。勤務は一応フレックス制になっているのだが、九時半からの勤務で定時は五時半だという。毎日九時半まで残業をして1日4時間、週5日で4週としてやっと80時間。けっこうラインとしてはぎりぎりのところなのかもしれない。10月は土曜出勤もあり、その代休もとっていないのでそれらを換算しても100時間をクリアするのは難しいのかもしれない。
 しかし入院当初もこちらがゆっくり休めといってもしきりに「休めない、明日は仕事行かなくちゃ、明後日はソフト屋さんとの打ち合わせがあるから休めない」を連発していた妻を見ているといじらしくて、なんとか仕事に追いたてられていた彼女の思いに報いてあげられないかと思った。
 で、この日は午後三時からカテーテルを使って造影剤を脳血管に注入して行うCT-脳内血管撮影検査が行われるので、それに付き添うこともあり休みをとった。それで空き時間に彼女の会社の管轄になる千代田区の中央労基署に行ってみた。
 対応したのは中年の女性だったが、なかな一筋縄ではいかないお役人さん。とにかく言質を与えない言葉選びに終始。「一概にいえない」「この場ではなんとも申し上げられない」を連発してくる。申請書に添付する労働実態の資料についても、こちら(労基署)で調べるの一点ばりで具体的になにが必要なのかを明示してくれない。じゃあ用意しなくていいのかというと勤務実態を添付してくれともいう。会社に対して何を要求すればいいのかというと、要求というような喧嘩腰ではなく、穏便にお願いしてみてはとも。具体的な意見やプラスティックな提言はあまりなく、全体として労災認定は難しいという流れにもっていっているような印象が大だった。
 最も最近呼んだ「アエラ」11.28日号の記事「労基署『追い返しおじさん』の罪」にあるように、労基署は認定基準が厳しく丁寧な対応ができないうえ人員不足もあり、特に過労死事案等は調査するのにたいへんな労力が必要で、忙しく手が回らない。「本音ではやりたくない」という心理が働く。また労基署は事業所から労働保険料を徴収しなければならない立場のため企業側への配慮が働くということもあるという。その結果、ほとんど門前払いのケースも後を絶たないらしい。そんな記事を読んでいただけに、賞味一時間半近くも対応してくれたこの女性担当者は、なかなかざっくりとした言葉を口にできない立場の中ではかなり親身に対応してくれたのではないかとも思う。最終的には労災の申請要領のパンフとともに5号様式(療養捕縄給付)と8号様式(休業補償給付)が該当するとして請求手順をレクチャーしてくれた。
 唯一私がひっかかったのは、妻の場合、経理事務で現金出納も担当しているので、上司から昼休みも原則席にいて欲しいといわれ、ほとんど毎日自席で食事をし、現金を請求する社員がきた場合は出金を行っていたのだが、それは労働時間に含めていいかと聞いた時に、それも一概にはいえないと一蹴してきたときだ。彼女曰く「昼休みでも自席で食事をする人もたくさんいますから」。でも上司からの指示でそうしているんですよ、これって明らかに手待ち時間じゃないですかと反論しても、「会社にもいろいろありますから」と明言を避けた。一般論としてどうかと聞いても、「確かに労働時間といえるかもしれないが奥さんの場合に該当するかどうかはわかりません」という。労働監督をする機関の職員がこういう言い方しかできないのだから、労働者の権利なんか守られるわけはないなとも感じてしまった。
 それではね、あなたは労基署の窓口担当として、上司から昼休みもとりあえず窓口で食事を取ってください、それでもし万が一相談にくる人がいたら対応してくださいといわれたら、それでもあなたは昼休みを取っているのかと内心言いたかった。まあ、言わなかったけど。
 それともう一つ障害保障について聞いた時に、左半身不随といっても完治することもあるわけですから障害保障について今申し上げるわけにはとさらりと言われた時だけは、少々言葉を荒らげてしまった。「いいですか、医者からですね、リハビリが成功しても基本的には車椅子生活っていわれているんですよ、なにを根拠に完治するとかいえるんですか」
 アエラの記事の中にある弁護士の「(過労死)の遺族の大半は最愛の人を亡くし、喪失感や絶望感に陥っている。職員には、そうした観点からの精神医学的な研修・教育も必要です」というコメントが寄せられている。過労死ではなくても突然の脳疾患等で配偶者が倒れたりした場合、家族はある意味さまざまな絶望感を抱えて、ある意味藁をもすがるような気持ちで労基署にも相談にやってくるのだと思う。だとするとこの敷居の高さ、原則門前払い的なお役所対応はアエラの記事の結びにあるように「信頼される労働行政サービスをどう提供するか。労基署の姿勢が問われている」ということなのだろうとも思う。