ふじみ野市長選の最終日

 ふじみ野市長選も明日が投票日。一週間の選挙戦も今日が最後だ。最終日とあって各候補の宣伝カーがあちことで候補者名を連呼している。正直、うるさい煩い、五月蝿い
 国政選挙と違って地方選挙はマスメディアで報道されるというわけでもなく、選挙運動は支援団体発行のビラやこの種の宣伝カーによる名前の連呼だけという状況だ。後援会を主体として地をはうような運動があるのだろうか、古くからこの地に住んでいる人は地縁、血縁や町会とかその他もろもろのしがらみから投票依頼とかあるのだろうが、越してきて十年程度の新住民にとっては、選挙はたいてい蚊帳の外という状態だ。
 話題になった小説『隣町戦争』ではないが、自分の住む町の出来事がなにか途方もなく遠いこと、日常生活からかけ離れたことのように感じられる。日常に入り込んでくるのは、ただただ煩わしい候補者名の連呼、連呼の騒音だけ。それが選挙の実情、この国のいう民主主義の実態なのかもしれない。
 年々、投票率は低下傾向にある。国政選挙でも50%に満たない状況になりつつある。ましては地方選挙では40%前後という状況だ。それは多分にこうした自治体選挙という自分の生活に一番密着した地方政治が、一番遠い存在になりつつあるという逆転現象になっているからなのだろう。必要とされる情報を得るメディアがまったく育っていない。新聞、TVといったマスメディアから垂れ流される種種雑多な情報の中には、日常生活により密接な影響があるはずの地方議会での討議や首長の業務執行などはまったく含まれていない。
 総理大臣のパフォーマンスは誰もが知っているのに、自分の住んでいる町の首長の名前する知らないというのがより一般的な形なのではないか。
 情報をより能動的に摂取するためのツールとしてのITも、こと選挙に関してはまったく機能していない。公職選挙法が各種WEBをビラと同様文書・図画としているからだ。ある特定候補への支持呼びかけは選挙違反に問われるらしい。そのため選挙期間中は、こと選挙に関する情報は更新されることがない。法規制が問われないマスメディア系のWEBサイトも、地方政治に関する情報はほとんど流していない。
 それでは何を基準に、何を材料に投票行動をしたらいいのか。現職の実績、新人候補のイメージ、政党の支持、推薦。そんなところか。ただし無所属候補の乱立は政党支持すら鮮明になっていないため判断材料にはならない。
 もともと今回の一市一町の合併は、住民投票といった民意を問うことなくすすめられた。しかも合併を決めた旧市、旧町の首長も市議会、町議会の各議員も前回の選挙で合併を公約に掲げていなかった。合併協議会の立ち上げからわずか一年で強引に合併を進めたのは、すべて合併特例債の期限3月31日に間に合わせるためだ。そのため大井町では合併に反対していた共産党系の団体を中心とした町長リコールの運動もおき、12000筆近いリコール署名が集められ、町長はリコール寸前までに追い詰められた。そうした経緯を踏まえたうえでの新市の首長選挙なのだ。
 10月1日にスタートしたふじみ野市は、合併の手続き上では大きな瑕疵があった。そういう意味では合併へのノーを再度意思表明をするうえでも棄権を決め込むこともありなのではないかとも思う。もし今回の市長選が40%前後の低投票率になれば、新市は民意から歓迎されていないことがはっきりするのかもしれないとも思う。住民から歓迎されない合併、そこが新市ふじみ野市のスタート地点ということだ。
 でも、投票棄権は本当にありなのか。民主主義国家にあって各種選挙への投票は国民の義務でもあるわけだ。政治への無関心、投票の棄権はそのまま自己の権利義務を放棄してしまうことでもあるわけだ。選挙に行かない、関心がない。それなら民主主義国家など必要ないわけだ。絶対主義、国王制、あるいは一党独裁社会主義、あるいは彼の国の首領様が支配する統治体制だっていいじゃないかということにもなりかねない。やっぱり棄権という選択肢はあまりにも無責任なのかもしれない。