所謂現代史を通読する機会にも、またそういう本にもでっくわしていなかったせいか、けっこう面白く読めました。ここんとこの構造的な不況・不景気、破綻寸前の国家財政、右傾化、保守化する人々の意識と政治状況、その他もろもろのことの契機が、私的にはなんとなく80年代の中曽根政権時代あたりから始まっているんではないかと漠然と思っていましたが、本書を読んでその意を強くしました。
この本以外でも多くの論者が指摘している、ある意味では歴史的事実となっていることだけど、あのバブルは1985年のプラザ合意からはじまっている。とすればその時の総理、中曽根さんや当時の蔵相宮澤さんの責任を誰も問わないのはなぜなんだろう。さらにいえば、バブルへの対策があまりにも遅きに失したこと、例の総量規制を進めた政治家、官僚の責任を問わないのはなぜ。その時の総理はたしか海部、大蔵大臣は橋本龍太郎のはず。彼らの政治責任は?自民党と社会党の野合政権だった村山内閣時代の住専処理の対応のまずさが今の不良債権問題に繋がっていること、その次の橋本内閣での消費税5%アップや増税など早急な緊縮財政政策が長期の不況の発端になっていること、そんなことをこの本でも確認できた。
本来政治は常に結果責任によって評価されるのに、一億総健忘症国家日本では総てが忘れ去られている。はっきりさせておくけど今の閉塞した政治、経済の状況の原因につね関わってきているのは、自民党政権とそれはそれは優秀な霞ヶ関のエリート官僚たちだったんだよね。なのに彼らはけっして歴史の審判にさらされることなくのうのうとしている。なぜか。はっきりしているのはね、この国の民には歴史意識っていうものが欠如しているからなんだ。やれ自虐史観だの、自国の歴史に誇りをもてだのというスローガンはいいけど、それ以前に歴史的事実を批判的に検証して、現実をよりよいものにしていくという考え方がなさすぎると思うわけなんだがどうだろう。
政治において政権交代が必要なのは、少なくとも対立党派が相手の政策を批判的に検証していくってことだと思う。そうやってちょっとづつよりましな方向に向かっていく。政権が長期化すれば権力は腐敗するし、失政はうやむやになっていく。
現代史の本を読むと、もろ現在に直結しているからこういうことをしみじみ思うわけだ。
この本から引用になるけど、わが意を得たりと思ったこと。
「これはすう十年前から私が言い続けてきたテーゼであるが、『政治意識の基礎には歴史意識がある』ということである。歴史意識とは自己認識であり、われわれは”どこから来て、今どこにいて、これからどこへ向かうか”を知ろうとする意識である。歴史認識において、過去は単なる過去ではなく、現在に突き刺さった過去として認識され、それは否応なしに現在を規定する政治・経済・外交・文化などと密接に関係せざるを得ない」
またこの本で知ったことだが、ジェンダー学の大沢真理の説では、日本では主婦は高度成長の末期に成立したとのこと。私の認識では主婦あるいは専業主婦は明治の後半あるいは大正時代あたりから都市を中心に広まったみたいな認識だったんだが、より一般化されたのは高度成長期だったのかなと、くわしく大沢女史の本を読んでみたいとも思った。
いずれにしろ三歳児信仰のようなデマゴギーが近代化の過程で生み出されてきたこと、女性を家事や育児にしばりつけるイデオロギー的所為が、母性だの、子どもの情緒教育などというもっともらしい言葉で脚色されているかをうかがいしれるなとも思いましたね。
だらだらと感想を綴りましたが、この本のレビューはアマゾンにも書いていますので。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4004309557/customer-reviews/ref=cm_cr_dp_2_1/250-7089375-0742669